日本橋の獅子像 [狛犬・寺社(東京都)]
取材したのになぜだか記事にしていなかったシリーズの続き(←なにそれ?)
そして前エントリーに続き、日本の有名な橋シリーズの続き(←なにそれ?其の2)
東京都中央区、日本橋。
日本に存在する橋の中でもっとも有名な橋のひとつと言っても過言ではない日本橋。
日本の道路の基点となっているという話は、なにを今更トークしちゃってんの?のレベル。
江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)に初代の橋が架けられ、
以来400年の歴史の中で幾たびも架設を繰り返し、
現在は数えて19代目とも20代目ともいわれる二連アーチ式石造橋となっています。
明治44年(1911)に完成した洋風デザインを採用した現在の橋は
平成11年(1999)に国の重要文化財に指定され歴史的価値が公的に認められましたが、
日本橋川の真上を走る首都高速が橋を圧迫するように交差していることから
都市景観を台無しにしているといった悪評が立っているのも、悲しいかな有名な話題。
で、今日の話題はそうした景観論争についてではもちろんなく、
装飾として橋の両端に据えられている獅子像について。
北詰と南詰の欄干端部に一体ずつ、計2対4体の獅子像がいるわけですが、
橋中央部の街路灯と一体で存在する麒麟像とともに日本橋の象徴的存在となっています。
(獅子の装飾そのものは他の部分を含めると計32箇所にものぼるらしいですね。)
明治5年(1876)に完成した先代の木造橋の傷みの進行から架け替えが課題となり、
東京市では新橋は耐久性に優れた石橋とすることに決定。
橋本体の設計は土木技師の米元晋一、
装飾部分など意匠担当が建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)。
実質的な制作を東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)に委嘱し、
原型制作のうち麒麟と獅子像は彫刻家の渡辺長男、燈柱は熊木三次郎が担当。
鋳造は数々の著名な作品の鋳造を手がけてきた岡崎雪声。
(まるで以前から詳しく知っていたかのごとくえらそうに書いてますが、
正直なところ今回の記事で詳しい名前は初めて知りました(^^;)
石橋といえども完全な西洋的にせず日本の伝統も加味した和洋折衷の様式を
基本として設計された橋は、石橋本体をルネサンス様式とした一方で
装飾部分は青銅を用いて日本的要素も取り入れられたものとなっています。
獅子像の制作については、リアルなライオンのデザインから中世の狛犬の様式まで
基本デザインの検討をした末、最終的に鎌倉時代様式の狛犬に落ち着いたそうです。
その際、ヨーロッパの盾を持つライオン像を参考にしてほしいというリクエストもあったことから、
検討した結果、盾として東京市の市章を持つものとされたのでした。
市章と教えられなければこういうデザインの西洋式の盾と思い込んじゃうかもしれませんね。
モデルは奈良市の手向山八幡宮の運慶作と伝えられる神殿狛犬とのこと。
が、この手向山八幡宮の運慶狛犬、知っている人なら分かると思いますが
モデルといっても両者の外見的特長はずいぶん異なります。
重文の古い狛犬は他の寺社出身の子たちも何対か指定されていますが、
そのなかで東寺の獅子狛犬のほうが、手向山八幡宮の子たちよりも
どちらかというと似ているのかなという印象もあるのですが。
明治後年の完成後、関東大震災や第二次大戦といった惨禍や戦時中の金属回収令など
暗い時期を経て100歳以上となった獅子像には外見の特徴以上に
激動の歴史を生き抜いてきた風格も漂っています。
ところでヨーロッパの橋にいるライオン像をイメージしたといっても、
モデルを日本の狛犬に求めた日本橋の獅子像は狛犬のそれ同様に
阿吽一対の取り合わせによって制作されています。されてはいるのですが、、、
見た人はすぐ気づくと思いますが、じつは通常のパターンと阿吽の左右が反対になっています。
モデルになったとされる手向山八幡宮の狛犬たちは通常のパターンどおり
向かって右が阿形、同左が吽形なので、それを真似たというわけではなさそうです。
特段深い理由などはもともと存在しなかったのかもしれませんが、
西洋のライオンではなく日本の狛犬をモデルとして阿吽スタイルを採用している以上、
その左右を全く無視したとも考えにくいことなので、
なにかしらの背景事情があったのではなかろうかと勘繰りたくなります。
理由をどこかに見つけられないかとインターネットに流通する情報を検索してみたのですが、
阿吽の配置を狛犬のセオリーとは逆配置とした理由について言及したものは発見できず。
関係する文献資料を読めば理由が載っているかもしれないので
いつか機会があればぜひ探ってみたいと思います。
個人的な推測では、古代より続く日本の左上位の思想が
明治以降に皇室において西洋文化に倣った右上位へと移ったことが
何か影響を与えたのではないかと考えているのですが、
これは話が長くなるのと裏付けがまったくないことなので、
また別の機会にでもじっくり考えてみましょう。
ちなみに日本橋の装飾において獅子像とともに有名なのが麒麟の像。
世間的には麒麟のほうが有名加減では上位かもしれませんが、
今回のネタはそこではないので、画像で紹介するのみとしておきます。
じつは麒麟の像のほうも獅子ど同様に阿吽の一対で作られていますが、
これ以上書くとホント長くなるので(≒面倒くさいので)今回はこれ以上掘り下げません。
あしからず。
あ、最後に歌川広重の有名な『東海道五十三次之内 日本橋』の浮世絵。
江戸末期の作品ですが、橋は何代目になるのでしょうね。
絵には当時の火の見やぐらが描かれており、半鐘もしっかり確認できます。
民家の屋根上に梯子の形状で設けられたものですから、町人のやぐらですね。
古絵図や古写真など最近見る機会が増えているのですが、
昔の町の様子を写した写真を見るたび、ついつい火の見やぐらや狛犬の姿を
そのなかに探してしまいますw
(撮影取材日:2013年6月16日)
そして前エントリーに続き、日本の有名な橋シリーズの続き(←なにそれ?其の2)
東京都中央区、日本橋。
日本に存在する橋の中でもっとも有名な橋のひとつと言っても過言ではない日本橋。
日本の道路の基点となっているという話は、なにを今更トークしちゃってんの?のレベル。
江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)に初代の橋が架けられ、
以来400年の歴史の中で幾たびも架設を繰り返し、
現在は数えて19代目とも20代目ともいわれる二連アーチ式石造橋となっています。
明治44年(1911)に完成した洋風デザインを採用した現在の橋は
平成11年(1999)に国の重要文化財に指定され歴史的価値が公的に認められましたが、
日本橋川の真上を走る首都高速が橋を圧迫するように交差していることから
都市景観を台無しにしているといった悪評が立っているのも、悲しいかな有名な話題。
で、今日の話題はそうした景観論争についてではもちろんなく、
装飾として橋の両端に据えられている獅子像について。
北詰と南詰の欄干端部に一体ずつ、計2対4体の獅子像がいるわけですが、
橋中央部の街路灯と一体で存在する麒麟像とともに日本橋の象徴的存在となっています。
(獅子の装飾そのものは他の部分を含めると計32箇所にものぼるらしいですね。)
明治5年(1876)に完成した先代の木造橋の傷みの進行から架け替えが課題となり、
東京市では新橋は耐久性に優れた石橋とすることに決定。
橋本体の設計は土木技師の米元晋一、
装飾部分など意匠担当が建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)。
実質的な制作を東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)に委嘱し、
原型制作のうち麒麟と獅子像は彫刻家の渡辺長男、燈柱は熊木三次郎が担当。
鋳造は数々の著名な作品の鋳造を手がけてきた岡崎雪声。
(まるで以前から詳しく知っていたかのごとくえらそうに書いてますが、
正直なところ今回の記事で詳しい名前は初めて知りました(^^;)
石橋といえども完全な西洋的にせず日本の伝統も加味した和洋折衷の様式を
基本として設計された橋は、石橋本体をルネサンス様式とした一方で
装飾部分は青銅を用いて日本的要素も取り入れられたものとなっています。
獅子像の制作については、リアルなライオンのデザインから中世の狛犬の様式まで
基本デザインの検討をした末、最終的に鎌倉時代様式の狛犬に落ち着いたそうです。
その際、ヨーロッパの盾を持つライオン像を参考にしてほしいというリクエストもあったことから、
検討した結果、盾として東京市の市章を持つものとされたのでした。
市章と教えられなければこういうデザインの西洋式の盾と思い込んじゃうかもしれませんね。
モデルは奈良市の手向山八幡宮の運慶作と伝えられる神殿狛犬とのこと。
が、この手向山八幡宮の運慶狛犬、知っている人なら分かると思いますが
モデルといっても両者の外見的特長はずいぶん異なります。
重文の古い狛犬は他の寺社出身の子たちも何対か指定されていますが、
そのなかで東寺の獅子狛犬のほうが、手向山八幡宮の子たちよりも
どちらかというと似ているのかなという印象もあるのですが。
明治後年の完成後、関東大震災や第二次大戦といった惨禍や戦時中の金属回収令など
暗い時期を経て100歳以上となった獅子像には外見の特徴以上に
激動の歴史を生き抜いてきた風格も漂っています。
ところでヨーロッパの橋にいるライオン像をイメージしたといっても、
モデルを日本の狛犬に求めた日本橋の獅子像は狛犬のそれ同様に
阿吽一対の取り合わせによって制作されています。されてはいるのですが、、、
見た人はすぐ気づくと思いますが、じつは通常のパターンと阿吽の左右が反対になっています。
モデルになったとされる手向山八幡宮の狛犬たちは通常のパターンどおり
向かって右が阿形、同左が吽形なので、それを真似たというわけではなさそうです。
特段深い理由などはもともと存在しなかったのかもしれませんが、
西洋のライオンではなく日本の狛犬をモデルとして阿吽スタイルを採用している以上、
その左右を全く無視したとも考えにくいことなので、
なにかしらの背景事情があったのではなかろうかと勘繰りたくなります。
理由をどこかに見つけられないかとインターネットに流通する情報を検索してみたのですが、
阿吽の配置を狛犬のセオリーとは逆配置とした理由について言及したものは発見できず。
関係する文献資料を読めば理由が載っているかもしれないので
いつか機会があればぜひ探ってみたいと思います。
個人的な推測では、古代より続く日本の左上位の思想が
明治以降に皇室において西洋文化に倣った右上位へと移ったことが
何か影響を与えたのではないかと考えているのですが、
これは話が長くなるのと裏付けがまったくないことなので、
また別の機会にでもじっくり考えてみましょう。
ちなみに日本橋の装飾において獅子像とともに有名なのが麒麟の像。
世間的には麒麟のほうが有名加減では上位かもしれませんが、
今回のネタはそこではないので、画像で紹介するのみとしておきます。
じつは麒麟の像のほうも獅子ど同様に阿吽の一対で作られていますが、
これ以上書くとホント長くなるので(≒面倒くさいので)今回はこれ以上掘り下げません。
あしからず。
あ、最後に歌川広重の有名な『東海道五十三次之内 日本橋』の浮世絵。
江戸末期の作品ですが、橋は何代目になるのでしょうね。
絵には当時の火の見やぐらが描かれており、半鐘もしっかり確認できます。
民家の屋根上に梯子の形状で設けられたものですから、町人のやぐらですね。
古絵図や古写真など最近見る機会が増えているのですが、
昔の町の様子を写した写真を見るたび、ついつい火の見やぐらや狛犬の姿を
そのなかに探してしまいますw
(撮影取材日:2013年6月16日)
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