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穂高町の火の見櫓について、続報 [火の見櫓(安曇野市)]

ここに一枚のモノクロ画像があります。
2014.03.09.2.JPG

そして、
昨年9月に記事エントリーした、安曇野市穂高の火の見櫓について。
2014.03.09.1.JPG
踊り場に小屋が付属した、非常に大型で高層タイプ。
穂高のまちなかのランドマークタワーのような存在となっている火の見櫓。
記事では黒部ダム工事関連現場からの移築について採り上げ、
昭和42年移築当時の画像も掲載しました。
2013.09.02.hotaka7.jpg

今回、その追加情報(と、いくらかの訂正事項)を得ました。
敢えて本編追記とせず新たに以下、記したいと思います。

まず、建設の経緯について前回までに知り得た情報は以下の通りでした。
*********************************
(町の噂話)
「黒部ダムの建設現場から移築したらしい」

(元消防団関係者の証言)
「建設現場ではなく、資材置き場の監視塔だった」
「資材置き場は工事現場へ向かう途中の山の中(≒山麓)にあったと思う」
「昭和38年、ダム完成に伴い、監視塔は行き場を探し求めていた」
「その頃、穂高町では元あった木造火の見櫓の老朽化で建替え話が出ていた」
「結果、監視塔を穂高町側で引き取り、火の見櫓として活用を始めた」
「昭和42年2月。移築竣工。現在に至る・・・」
*********************************

とまあ、大まかな話の流れはこんな感じでした。
噂話に過ぎなかったネタに裏が取れたと、その時点で喜んだのは事実ですが、
大町に在ったという物証(当時の写真)を確認していなかったため、
心のなかではいくばくかの不安が残っていたのはたしか。

で、ここで改めて、冒頭のモノクロ写真を見ます。
2014.03.09.2.JPG
これは黒部ダム建設工事の際に設けられた高瀬川骨材採取製造場。
タイヤが人の背丈ほどもあるような超大型のダンプカーが
何十台と並び待機している姿は圧巻ですね。
整然と並んでいる様子から、記念写真的に撮影されたのでしょうか。

そしてここに、どこかで見たような一基の塔が立っています。
そうです。紛れもなく穂高町の火の見櫓の若かりし頃の勇姿そのもの。
2014.03.09.3.JPG

つい先日、大町の麻倉にて黒部ダム建設工事関連の写真パネル展が開催されました。
なにかしら新事実が得られるのではないかと出向いてみたところ、
そのパネル展では有力な情報は得られませんでしたが、
数日後、このパネル展関係者の方から連絡をいただきまして、
「探しているのはこれではないか?」ということで
上掲の写真情報を頂いたという次第です。

まさにこの子ですね。
ということで、上の話の流れを改めて整理して加筆訂正すると、こうなります。

「黒部ダム建設工事に伴い高瀬川河川敷に骨材工場がつくられ、監視塔が建てられた。」
「昭和38年、ダム完成に伴い、監視塔は行き場を探し求めていた」
「その頃、穂高町では元あった木造火の見櫓の老朽化で建替え話が出ていた」
「監視塔を穂高町側で引き取り、屋根と脚部に改装を施し、火の見櫓として活用を始めた」
「昭和42年2月。移築竣工。現在に至る・・・」

以上。

ちなみにダム工事用の資材置き場というのは、実際には当時の大町市街に隣接するかたちで
現在のJR大糸線北大町駅から大町文化会館付近に在ったそうで、
こちらも写真資料がしっかりと残されています。
2014.03.09.6.JPG
広大な資材置き場には大糸線を利用した貨物車が直接乗り入れられ、
ここでセメント資材などが画像右奥に通じる道路で運搬されました。
左向こうに見える森はダム工事完遂祈願祭も執り行われた若一王子神社。
そしてさらにその後方には高瀬川の流れがあり、
監視塔の立つ骨材工場も左奥のほうに確認できますね。

肝心の櫓についてですが、画像で分かるように
監視塔時代と火の見櫓に転じてからでは、デザインに相違点が認められます。

まず穂高で存在する屋根が当時の画像では無いこと。
2014.03.09.4.JPG
最上部の所謂見張り台に該当する部分の手摺の形状が異なること。
画像を見る限り、当時この位置には照明器具などの類だけが付設されていたようで、
見張り台としての機能は小屋の付属する踊り場相当にあったようです。
あとはおそらく避雷針も兼ねていたであろうポールに緑十字の旗が確認できます。

小屋については同じようにも見えますが、
窓や片流れ屋根の様子が少し異なっている感じですので、
基本形状は同じながらも一部改良を加えたのかもしれません。

そして最大の相違点は脚部の様子です。
2014.03.09.5.JPG
当時の監視塔では末広がりの状態で地面に据えられており、
穂高で見られるような地面対し垂直に立つ柱脚が存在していません。
2014.03.09.9.JPG
現在の火の見櫓は隣接する消防団屯所建物の一部に設けた踊り場を経由して
梯子によって地上から登るように設定されています。
(屯所2階からと思っていましたが、よく見ると地上から梯子昇降でした。。。)

穂高移設時はまだ現在の消防団屯所は建っておらず、
梯子だけでなく階段の方向も異なる向きに設置されていたようです。
というか、屯所の建設に合わせて階段の向きを付け替えたといったほうが正しいかも。
そして問題の脚部は移設のタイミングで追加されたと考えるのが自然ですが、
元々それなりに背が高い櫓なので、通常なら無理してかさ上げする必要はないと思われます。
この点の背景事情はさらに取材が必要ですが、
推測するに屯所建築計画がすでにあって、それを見越してかさ上げがなされたか、
あるいはまちなかということで、周辺建物との兼ね合いから高さを稼ぐ必要を考慮し、
2mを超える柱脚を追加したということでしょうか。

いづれにしても、黒部ダム工事に深く関わったこの子が穂高町に嫁入りし、
新天地で一段と大きく成長したというわけです。
2014.03.09.1.JPG

今日、今回の写真情報を頂きに大町へ出向いたその流れで、
もともとこの子が立っていた高瀬川の骨材工場跡にも案内して頂きました。
2014.03.09.7.JPG
場所は山麓線の蓮華大橋から程近い場所。
画像では視点場がかなり高い位置にある印象のため、
例えば管理事務所のような建物の2~3階から撮影したのかと思っていましたが、
骨材製造場だった場所の背後は河岸段丘となっており、
高台になっている側から撮影されたものだということが現地で分かりました。
2014.03.09.8.JPG2014.03.09.2.JPG

背後にはモノクロ画像と同じく蓮華岳などのアルプスの山並みが同じ角度で確認できました。
いやはや、穂高町の火の見櫓の生まれ故郷ですよ。
穂高へ嫁いで来る前に、あの子が青春時代(!?)を過ごした思い出の地なわけですよ。
とてつもなく感慨深いものがあります。

そしてこの生まれ故郷であり、若かりし頃を過ごした思い出の土地を前に、
やはりどうやってでも穂高の火の見櫓は残していかなくてはという思いが改めて強くなりました。
撤去解体の話も役所の内部ではチラホラ上がっているという噂も耳にしますが、
老朽化した公共構造物だからといって十把一絡げに扱わず、
そのものが持つ文化財としての価値、なにより黒部ダム建設工事という
戦後の一大国家プロジェクトの生き証人であるという事実を
関係各位にはしっかりと認識した上で、適切な対応を負って欲しいと切に願います。

画像や映像などではけっして得られない、
実体としての姿が残っていればこそ伝わる歴史もあると思うわけですよ、ハイ。

(取材日:2014年3月9日)

PS.
今回の取材のきっかけとなった貴重な画像情報を提供して頂いた
くろよんロイヤルホテルのK氏に、心より感謝申し上げますm(__)m

ちなみに黒部ダム建設工事関連のモノクロ写真をはじめ貴重な資料は
くろよんロイヤルホテル内にて展示中です。
ホテルご利用の際はぜひ見学鑑賞をお忘れなく(^^)b

くろよんロイヤルホテル公式HP
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