松本にいる明和6年の狛犬 [狛犬・寺社(松本市)]
長野県松本市大手一丁目、今町亘理神社。
市街地を流れる女鳥羽川沿いにあり、
近年急速にマンション街のような感じになりつつあるご近所の中、
こじんまりした境内が待ち構えています。
境内手前に立つ禁札舎には英語表記。
社名の亘理=“わたり”の名称由来は由緒書きにありました。
どうやら女鳥羽川の渡し場安全祈願の意味を込めたものとのことだそうで、
これによれば亘理神社と今町五柱神社の二社が合祀されたとあります。
ただ、奥州は現在の宮城県内に亘理郡という地方がありますが、
それとはなにか関係ないのでしょうかね。
ご祭神に森陸奥六郎義隆が祀られていますけど、亘理郡とは関係ないのかな?
ご祭神は
倉稲魂命
誉田別尊
森陸奥六郎義隆
などをはじめ、他に5柱。
創建年は亘理神社が安政4(1857)年、今町五柱神社が大正2年(1913)。
両者の合祀は昭和26(1951)年となっています。
ただ長野県神社庁の紹介によれば、
「宝永3年当村字南に勧請、文政4年吉田家の許可を得て天白稲荷と称し安政4年当地移す。」
とあります。
宝永3年=1706年。
文政4年=1821年。
以上を踏まえて狛犬鑑賞に移るとですね、、、
参道左右に2対の狛犬がいますが、まず手前側。
明和6(1769)己丑年9月吉日建立。
境内の由緒書きにある神社の創建年との整合性がたたないために
この建立年を見て迷いが生じましたが、帰宅後上記HPの紹介文を読んで納得しました。
デザインですが、顔つきを見て一瞬浪速型かと思ってしまいました。
京都あたりで見かける江戸末期~明治期の狛犬の印象になんとなく近かったので。
明和6年といえば、穂高神社若宮社の狛犬が真っ先に思い浮かびます。
若宮社のほうは同年4月建立なので、たった5ヶ月ほどの差。
たてがみや尾のデザイン、体長などもけっこう似通っています。
若宮社の狛犬は江戸で制作され穂高まで運ばれてきたとのことですが、
亘理神社の子達も同じ系譜である可能性はあんがい低くないと思います。
吽形の足座正面側に建立年が記銘されているのも、若宮社と同じですし。
江戸中期の作品に時折見かける頭頂部の窪みが確認できるのも若宮と同じですね。
若宮の子を模倣して地元の石工により制作された可能性も無きにしも非ずですが、
素材が同一のような気がしますし、やはり江戸で作られたものを運ばれてきたのでしょうか。
そして足座に刻まれた「○に羽」の文字が気になります。
亘理神社はもともと折井家個人の神社だったとありますが、
○に羽が同家の屋号などと関係があったのでしょうかね。
あるいは制作した石工の屋号かなにかなのか?
この足座、現在は台座の石にコンクリート固定されてしまっていますが、
もとは単純な四角平面ではなく下部が彫り込みがあったようで
側面には簡単ながらも化粧デザインが施されています。
化粧はともかく、こういう感じのマーク入りはあまり見かけないですね。
いづれにしても、松本市内で自分が取材した狛犬のうち
年銘がはっきり刻まれているものとしては最古の石造狛犬となりました。
自分は“はじめちゃん”を含めた年代古い子ばかり追っかけているわけではないですが、
それでも江戸中期という希少性の高い子達と出会うと嬉しくなりますね。
市内には他にも年銘不明な江戸中期頃ではないかと推測される子達もいますが、
もしも明和6年より以前建立の子達がいれば、ぜひ情報をお寄せ下さい(^^)v
明和生まれの子達のすぐ奥にはもう一対の狛犬たち。
こちらは建立年不明なんです、が。。。
なんなんでしょ?
阿形は玉取り、吽形は子取り。
で、玉も子獅子も明らかに後世の後付け。
でも前脚の様子なんかは単純な付け足しじゃなくて
もともとそこに何か(子とか玉)が存在していたような動きですよね。
なにかしらの事情で破損したので、新たに作り直したということなんでしょうかね。
裏事情はよく分かりませんが、
子獅子はありがちな普及品のような感じなので、
もうちょっと工夫が欲しかったですね。
玉もせっかくなのだからデザインを取って松本てまりをイメージしたものにするとか。
多分に予算の都合であろうかとは思うのですが、ちょっと惜しいです。
目が赤く着色されていたようで、塗装が伝ってきているのが
なんとなく赤い涙を流しているかのようで、ちょっと切ない印象。
本殿と拝殿。
境内の奥に祀られている石仏。
境内はまちなかの片隅に立つ神社らしくこじんまりですが、
氏子(崇敬者)のみなさんが清掃などまめにされていらっしゃるのか、
とても清潔な感じでした。
社務所と思しき隣家が町内の公民館だったようで、
地域の住民自治と神様との一体感が残されているような印象です。
神社前を流れる女鳥羽の川の様子も、雰囲気があっていいですね。
(撮影日:2014年6月26日)
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市街地を流れる女鳥羽川沿いにあり、
近年急速にマンション街のような感じになりつつあるご近所の中、
こじんまりした境内が待ち構えています。
境内手前に立つ禁札舎には英語表記。
社名の亘理=“わたり”の名称由来は由緒書きにありました。
どうやら女鳥羽川の渡し場安全祈願の意味を込めたものとのことだそうで、
これによれば亘理神社と今町五柱神社の二社が合祀されたとあります。
ただ、奥州は現在の宮城県内に亘理郡という地方がありますが、
それとはなにか関係ないのでしょうかね。
ご祭神に森陸奥六郎義隆が祀られていますけど、亘理郡とは関係ないのかな?
ご祭神は
倉稲魂命
誉田別尊
森陸奥六郎義隆
などをはじめ、他に5柱。
創建年は亘理神社が安政4(1857)年、今町五柱神社が大正2年(1913)。
両者の合祀は昭和26(1951)年となっています。
ただ長野県神社庁の紹介によれば、
「宝永3年当村字南に勧請、文政4年吉田家の許可を得て天白稲荷と称し安政4年当地移す。」
とあります。
宝永3年=1706年。
文政4年=1821年。
以上を踏まえて狛犬鑑賞に移るとですね、、、
参道左右に2対の狛犬がいますが、まず手前側。
明和6(1769)己丑年9月吉日建立。
境内の由緒書きにある神社の創建年との整合性がたたないために
この建立年を見て迷いが生じましたが、帰宅後上記HPの紹介文を読んで納得しました。
デザインですが、顔つきを見て一瞬浪速型かと思ってしまいました。
京都あたりで見かける江戸末期~明治期の狛犬の印象になんとなく近かったので。
明和6年といえば、穂高神社若宮社の狛犬が真っ先に思い浮かびます。
若宮社のほうは同年4月建立なので、たった5ヶ月ほどの差。
たてがみや尾のデザイン、体長などもけっこう似通っています。
若宮社の狛犬は江戸で制作され穂高まで運ばれてきたとのことですが、
亘理神社の子達も同じ系譜である可能性はあんがい低くないと思います。
吽形の足座正面側に建立年が記銘されているのも、若宮社と同じですし。
江戸中期の作品に時折見かける頭頂部の窪みが確認できるのも若宮と同じですね。
若宮の子を模倣して地元の石工により制作された可能性も無きにしも非ずですが、
素材が同一のような気がしますし、やはり江戸で作られたものを運ばれてきたのでしょうか。
そして足座に刻まれた「○に羽」の文字が気になります。
亘理神社はもともと折井家個人の神社だったとありますが、
○に羽が同家の屋号などと関係があったのでしょうかね。
あるいは制作した石工の屋号かなにかなのか?
この足座、現在は台座の石にコンクリート固定されてしまっていますが、
もとは単純な四角平面ではなく下部が彫り込みがあったようで
側面には簡単ながらも化粧デザインが施されています。
化粧はともかく、こういう感じのマーク入りはあまり見かけないですね。
いづれにしても、松本市内で自分が取材した狛犬のうち
年銘がはっきり刻まれているものとしては最古の石造狛犬となりました。
自分は“はじめちゃん”を含めた年代古い子ばかり追っかけているわけではないですが、
それでも江戸中期という希少性の高い子達と出会うと嬉しくなりますね。
市内には他にも年銘不明な江戸中期頃ではないかと推測される子達もいますが、
もしも明和6年より以前建立の子達がいれば、ぜひ情報をお寄せ下さい(^^)v
明和生まれの子達のすぐ奥にはもう一対の狛犬たち。
こちらは建立年不明なんです、が。。。
なんなんでしょ?
阿形は玉取り、吽形は子取り。
で、玉も子獅子も明らかに後世の後付け。
でも前脚の様子なんかは単純な付け足しじゃなくて
もともとそこに何か(子とか玉)が存在していたような動きですよね。
なにかしらの事情で破損したので、新たに作り直したということなんでしょうかね。
裏事情はよく分かりませんが、
子獅子はありがちな普及品のような感じなので、
もうちょっと工夫が欲しかったですね。
玉もせっかくなのだからデザインを取って松本てまりをイメージしたものにするとか。
多分に予算の都合であろうかとは思うのですが、ちょっと惜しいです。
目が赤く着色されていたようで、塗装が伝ってきているのが
なんとなく赤い涙を流しているかのようで、ちょっと切ない印象。
本殿と拝殿。
境内の奥に祀られている石仏。
境内はまちなかの片隅に立つ神社らしくこじんまりですが、
氏子(崇敬者)のみなさんが清掃などまめにされていらっしゃるのか、
とても清潔な感じでした。
社務所と思しき隣家が町内の公民館だったようで、
地域の住民自治と神様との一体感が残されているような印象です。
神社前を流れる女鳥羽の川の様子も、雰囲気があっていいですね。
(撮影日:2014年6月26日)
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