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安曇野に残る火の見やぐら遺跡 [火の見櫓(安曇野市)]

(2015年2月17日記事エントリー後、2月18日に訂正を追記しました。)


火の見やぐらは普段その存在をほとんど意識することがないものなのに、
ひとたび気になりだすと目に付いてどうしようもなくなる存在。

火の見ヤグラーを自称するようになってからは
車を走らせながら視界の隅にそれらしき影が飛び込んできただけで
火の見やぐらをその場所に認識することが出来てしまったり、
さらには姿かたちが見えていないのに脳内の火の見やぐらセンサーが急に動き始め、
センサーの反応にしたがって車を走らせると「あ、あった。」となってしまったり。
完全に重度の火の見やぐら中毒にかかった症状が続いて今に至っている状況。

で、ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、何が書きたいのかというと
一度意識が芽生えてしまうと、今まで見えていなかったもの
(正確には“見えていたのに脳が反応していなかったもの”)に対して
意識がしっかりと働いて目に飛び込んで来たものを認識するようになる
ということを、改めて今日思い知らされたという話でして。


先月エントリーした記事のなかで、安曇野市穂高の牧地区に残る
石製の火の見やぐら台柱について記事をしたためました。
2015.01.29.1.JPGimg113.jpg
(2015年1月30日:取り残された火の見やぐらの台柱

その後、透明タペストリーのU1教授が追取材のうえ記事をアップしてくださり、
美麻新行地区の木造火の見やぐらだけでなく
池田町長野市で過去に取材した鉄骨やぐらたちも
足元を石柱で固定したものがあったのを思い出させてもらいました。

そんなわけで台柱(火の見やぐらの脚部を補強固定する柱)が
その牧地区に残された台柱以降なんとなく意識されるようになったわけですが、
明らかにその意識の賜物と言い切っていい出来事が起こってしまったのがこちら。
2015.02.17.shinden1.JPG
この画像、安曇野市豊科の新田地区の国道147号線沿い。
穂高方面から南進すると右手に蔦屋書店豊科店がありますが、その真向かい。
2015.02.17.shinden6.JPG
ブロック塀と電柱や広告塔などに囲まれるようにひっそりと立ち、
蔦のような草に絡まれてしまっている石柱3本。

一番北寄りの柱には「新田消」の文字。
そして南寄りの柱には「大正四年四月建」の文字。
2015.02.17.shinden2.JPG2015.02.17.shinden3.JPG
文字が埋もれてしまっていますが、
新田消防組が大正4年(1915)4月に建設した火の見やぐらの台柱であると考えて
ほぼ間違いないでしょう。(消防組は戦前に存在した、現在の消防団の前身。)

これまでどれだけ車で走ったか分からないほど日常的に使用している生活道路。
火の見やぐらを意識し始めて以降も相当な回数を通過しているはずなのですが、
今までまったくこの台柱の存在に気づくことはありませんでした。
考えてみると牧地区の台柱を取材した日以降、この場所を通過したのは
今日が初めてですね。いやはや、意識というものは恐ろしいものです。

文字の一部が埋もれてしまったのは
道路がここ数十年の間にどんどん高くなってしまった影響と思われます。

目算で背丈はだいたい110~120センチほど。
埋もれてしまった部分を勘案すると、
牧地区で見たものに近いサイズだったのではとも考えられます。

それぞれに開けられているボルト穴はかなり大きく、直径4センチくらいあるでしょうか。
2015.02.17.shinden4.JPG

ここで過去に同じ新田地区の火の見やぐらについて取り上げた
記事の中身について思い出してみました。
(2012年1月7日の記事:豊科成相新田に立つふたつの火の見櫓
2012.01.07.1.JPG2015.02.17.shinden9.JPG
現在の新田地区の火の見やぐらは鉄骨製3脚柱の高層タイプ。
正月には立て御柱と並び立つ姿が有名な一基です。

そしてその記事のなかに古い写真を掲載したのですが、それがこちら。
2015.02.17.shinden10.jpg
おそらくこの画像の木製の火の見やぐらが、この台柱の場所に立っていた子なのでしょう。
(確実な裏付けがないので、あえて“おそらく”としておきます。)

古写真の撮影時期は昭和32年1月16日だそうですが、
先のエントリー記事のなかでこの古写真のことをこのように解説してしまっていました。

「・・・写っている状況から推測して今の火の見櫓とは
道路を挟んだ反対側にあったように感じます。・・・」

この解説は画像に写っている人影の向きなどから推測した結果だったのですが、
それは誤りであったと考えていいでしょう。

仮にこの台柱が古写真の火の見やぐらのものだとすれば、
写真の撮影ポイントと推測される場所から見た現在の景色はこんな感じ。
2015.02.17.shinden8.JPG
残念ながら古写真には脚部の様子が写っておらず裏付け調査もまだなので
100%断定できないですが、自分はもうこれが間違いないと確信しています。
(嘘ついてたらごめんなさい。。。)

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(※2月18日訂正)
古写真について、今回取材した台柱の場所を写したものであろうと記しましたが、
これはそうではなく、もとの新田の火の見やぐらを取材したエントリー記事に
当初記したように、現在の鉄骨やぐらの対面にあった木造やぐらを
撮影したものである公算のほうがどうやら高いようです。
2015.02.17.shinden12.JPG
ということで、いづれにしても確証がないため原文はそのまま残しますが、
いちおう上記の古写真に関する記述内容は一部訂正させて頂きます。
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そして台柱の位置から南方に立つ現在の火の見やぐらを望むとこんな感じです。
2015.02.17.shinden5.JPG
現火の見やぐらは現地に建設年を記した銘板はないのですが、
昭和37年に撮影された空撮写真にその存在が認められるので、
30年代半ばまでには建設されたと考えてよいと思われます。
新旧、木造から鉄骨造へと転換が図られたのだとすれば
台柱に支えられていた古写真の木製火の見やぐらは
鉄骨やぐら建設のタイミングで解体撤去されたと考えるのが妥当でしょう。
仮にそうだとすれば、いま目の前に立つ台柱は50年以上ものあいだ、
誰にも構われることなくこの往来の激しい国道沿いの傍らで
人々から忘れ去られてしまったかのように、じっと静かに佇んでいたことになります。
なんというか、火の見ヤグラーのひとりとしてちょっと切ない気持ちになってきますね。

そしてじつはちょっと気になるのが、台柱の土地に隣接する空き地で
なにかの建設工事が始まる様子であったこと。
台柱のある狭小地の権利関係がどうなっているのかよく分かりませんが、
仮に工事の行われる隣地と一筆であった場合、
台柱そのものが撤去されてしまう可能性も無きにしも非ず。

個人的にはなんとかこの場に留まっていて欲しいと願うばかりですが、
どうなってしまうのかやきもきする日々が続きそうで、悩ましいです。

大正4年といえば、大糸線(当時は民間の信濃鉄道)が開業した年で、
今年はちょうど開業100周年にあたります。
100年前に据えられた火の見やぐらの台柱。
これだけでじゅうぶんな地域の歴史文化遺産だといえるはずなのですが。

あぁ、工事の影響を受けずになんとか残って欲しい。

(取材日:2015年2月17日)




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