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神社のお向かいさんは神社 [狛犬・寺社(滋賀県)]

昨年末に大阪へ出張で出かけた際にいくつかの神社を取材し、
その記事をエントリーしたのですが、一社だけうっかりアップを
忘れていたことに気づきまして。

滋賀県東近江市五個荘金堂町、日若宮神社。
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以前エントリーした大城神社の真向かいにあり、
同じときに参拝取材しているにもかかわらず、記事にするのを失念。
というか、あとで知ったことですが、滋賀県神社庁HPによると
この日若宮神社は先述の大城神社の境内社とされていました。
道路を隔てた別の敷地にななるので、現地ではそこまで分かりませんでした。

道路から続く参道はすぐ90度に折れ曲がり、
鳥居をくぐるとその先に本殿というか祠というかがありました。
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狛犬はその祠をしっかり守るべく蹲踞する狛犬一対。
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昭和2年(1927)4月建立。
浪速型の特徴がよく表れている一対と思います。
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吽形の頭部にはコブのような角がぴょこんと生えています。
また阿吽ともに鼻毛に見えなくもない立派な口髭がしっかり。

前足後ろ足とも、足先の彫りが太いですね。
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甲の部分が盛り上がっているのは毛並みの深さを表しているのでしょうかね。

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尾もボリュームがあって、なかなかがっちりしたいい子でした。
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(取材日:2014年12月12日)




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火の見やぐら on TSB [火の見櫓(安曇野市)]

こちら、安曇野市穂高のまちなかに立つ大型の火の見やぐら。
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過去のエントリー記事にて、この子は生まれが大町市で
黒部ダムの建設工事関連施設(骨材採取製造場)の監視塔として活躍後、
昭和42年に穂高町に嫁入りし、その後火の見やぐらとして第二の人生を始めた
という話を幾度か取り上げたりしてきました。

2013年9月2日の記事
2014年3月9日の記事

外観の特徴もさることながらその特殊な経歴もあって、
新聞やテレビ番組といったメディアでも何度か採り上げてもらう機会がありました。
そんななか先日長野県ローカルの情報番組に取材をしてもらうことができ、
昨日の夕方にまたテレビ画面にこの子の雄姿が登場したのでした。
テレビ出演は昨年5月の長野朝日放送「abnステーション」以来2度目ですね。

2014年5月29日の記事

今回の番組はテレビ信州「ゆうがたGet!」。
特集コーナーで安曇野市を紹介する企画があり、そのコーナーの一部として登場。
じつはこのコーナーの取材に際して自分が半分くらいをコーディネートさせてもらい、
その結果運よく火の見やぐらの話を取り上げてもらうことになったという次第です。
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番組内では建設当時の消防団副団長を務めていた方が登場し、
「後世に残して欲しい」と訴えていました。
いま安曇野市は全国的な流れの例に漏れず、
火の見やぐらの解体撤去が加速度を増して進行しています。
黒部ダム建設に関係した貴重な産業遺産、地域の財産を
簡単に撤去解体などして欲しくないというのは私だけでなく
周囲の多くの人の意見でもあるわけですが、
維持管理している側や立地条件などのネガティブな諸事情が
そうした保全活用の声に耳を傾けてくれる機会を許さないのが実情です。

つい先日も松本市のカタクラモール再開発に絡んで
大正15年建設の貴重な火の見やぐらがあっけなくその命脈を断ち切られたばかりですし、
この穂高町の火の見やぐらもいつ解体話が具体的に進行してしまうか
予断を許さない状況になりつつあります。

自分ひとりが騒いでいるだけではどうにかなるものでもないですが、
地域の住民がこの火の見やぐらに対して関心を高めてもらうことが
まずなにより大事になってくるわけなので、今回のようなメディア露出も利用しつつ
地域が誇るべき貴重な財産だという認識を抱いてもらえるように、
あれこれと保全活用の方策を練りだしてゆきたいと思う次第です。

それにしても、いろいろやりたいこと、なすべきことが多すぎる。
要領の悪いところは改めなくてはだけど、にしても身体がもうひとつ欲しい感覚。。。

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武運長久、そして再興狛犬 [狛犬・寺社(東筑摩郡)]

長野県東筑摩郡筑北村、乱橋の諏訪神社。
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2月半ばのまだ雪がほどほどに積もっている春直前の時期に取材したものを
まだアップしていませんでした。完全に失念(汗ッ・・・)

じつは今日、狛犬絡みでかなり嬉しい出来事があったので
久しぶりにネタをアップをしようと思って取材済&未掲載の狛犬を探したところ、
直近の取材でこれがまだだったことに気づきまして。

安曇野市から国道403号線を走り、峠を越えて筑北村に入ってから
長野道の高架下をくぐってすぐ県道303号に入り、しばらく走ると左側に見えてきます。

拝殿ですが本殿も同じ建物にあり、覆い屋を兼ねたような感じ。
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神楽殿はシンプルですが、茅葺屋根だったであろう様子はどっしりした印象。
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石造と木造の祠がずらっと並んだ境内社。
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うねる様に伸びるケヤキのご神木が立派です。
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狛犬は木造のこじんまりした鳥居をくぐると、すぐ両脇に一対。
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一見して平成生まれの子達だと識別できました。
しかし台座の下半分はけっこう古そうです。
さては再興された狛犬かな、と思っていたら案の定でした。
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古い台座には「昭和十四年(1939)秋」という文字がかろうじて読み取れます。
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そして上部の新しい台座には「平成十七年五月吉日 乱橋区献納」とありました。
さらに一方の台座には「祈武運長久」の文字が。

昭和14年=1939年秋といえば、第二次大戦勃発がまさに勃発した時。
軍人として出征する村の若者たちの武運を祈る(無事を願う)気持ちのこめられた
狛犬の奉献だったのでしょう。

ところが、平成17年になって新たな狛犬が奉献されたという事実。
過去の取材例から普通に推測すると、昭和14年当時に奉献されたのはブロンズ狛犬で、
その後の金属類回収令によって徴収されてしまい、数十年間空いていた台座に
平成の時代になって今度は石造の狛犬が据えられることになった・・・と、
考えるのが自然な感じがします。
あるいは単に何かの事情によって初代の狛犬は破損したかなにかで、
新しい狛犬にすげ替えられてしまったということなのか・・・。

正確な事実の証明は氏子さんなどにヒアリングするしかないですが、
いづれにしても古い台座の上に乗っかるこの子達は正直違和感があるものの、
やはり裏書きの武運長久の文字を見るとなんともいえない感覚が心に沸いてきますね。

太平洋戦争直前や、少し古いところでは日露戦争直前といった
昭和10年代前半や明治30年代半ば頃の狛犬たちは
建立理由にこうした言葉が記されているものをたまに見かけます。
こういうものを目にするたび、平和であり続けますようにと願うばかりで、
本来拝みの対象ではない狛犬たちに対しても祈りを捧げる気持ちになったりします。
昭和14年秋の、乱橋地区の氏子さんたちの気持ちに思いを致して・・・。
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PS.
冒頭に書いた"今日の嬉しい出来事”については、また後日改めて報告します・・・たぶん。

(取材日:2015年2月20日)




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火の見やぐら遺跡、三たび・・・ [火の見櫓(安曇野市)]

木造(またはごく一部の鉄骨造でも)の柱を用いた火の見やぐらの場合、
その柱脚部を石柱の基礎で固定するということがかつては一般的だったようで、
その石の台柱のみが遺構として残されている様子を過去に2回取り上げました。

取り残された火の見やぐらの台柱
安曇野に残る火の見やぐらの遺跡

そして、、、今日、三度目の取材記事となる石造の台柱を発見してしまいました。
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安曇野市穂高柏原、松下地区。

堀金烏川の扇町地区と境を接する同地区の一角、
交差点の片隅にトライアングルに立てられた3本柱が残されていました。

台柱それぞれに文字が見られます。
「大正九年十二月建(設?)」
「柏矢町消防(組?)」
「西穂高村警防団」
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足元にあるのは道祖神なのだろうか? 字が読みづらい。
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大町市美麻の木造火の見やぐらの台柱にある年代は大正15年。
それより遡ること6年前に建てられている計算になります。

柏矢町は大糸線柏矢町駅付近の地区名で、この場所から少し離れた場所になりまますが、
消防組の組織は柏矢町の名称でこの地区は活動していたのでしょうかね。

西穂高村は現在の穂高柏原と穂高牧の両地域にあたり、明治22年発足以降
昭和29年に周辺地域と合併して穂高町となるまで存続していた自治体です。
警防団は昭和14年に国の法令によって発足した自警団体で、
消防組はその前身にあたる組織です。
大正9年の銘文が建設年だとすれば、当時は消防組の名前だけだったところに
昭和14年以降になってあとから警防団の名前が空白だった残り一本に刻まれた
というふうに考えることができますが、事実はさてどうなのでしょう。

ところで、、、
今年に入って牧地区の荒神堂に残されていた火の見やぐらの台柱を目にするまで
火の見ヤグラーの自分としてもこうした遺構に目が向くことはありませんでしたが、
一度気になり始めると意識がそちらに向いてしまうというのは、
やぐら自体を発見するのと同じ感覚が機能しているのでしょう。

この台柱のある道路もしょっちゅうではないにせよ、過去に幾度も車で走り抜けている道です。
こうして気になりだすとここ2ヶ月ほどの間に3箇所で発見してしまうということですから、
案外こうした遺構は各所にまだ残されているのかもしれません。
安曇野以外の地域へ出かけたときも、ちょっと気を配ってみれば、あるいは・・・。

それにしても、こうしてやぐら本体を失った台柱がどうしていまだに残されているのか。
別の言い方をすれば、なにゆえやぐら撤去に合わせて台柱を取り除かなかったのか。

このような石の台柱を持つ木造の火の見やぐらは少なくなかったと思います。
(鉄骨造の可能性も無きにしも非ずではあるけれど。)
けっして往来の邪魔とかそういうわけではないですが、
道路整備の一環などで撤去されていても不思議ではなかったはず。
それでも残されていたのにはなにかそれなりの理由があったのか。

大町市美麻新行の火の見やぐらについて、地域住民の方は
「昔の大火のあとに立てられた防災記念碑」の意味を持っていると語っていました。
今回発見した松下地区の台柱や先に見つけた2地区のものに
そのような意味が込められていたかどうかはわかりません。
そこまでの意味がなく、たまたま取り除く手間をかけなかっただけというほうが
納得ができそうな感じもしています。

ただ、大正9年以来の地区の安全を見守ってきた火の見やぐらの一部として
地域住民があえて記念碑の意味を込めて残したとしても不思議ではないかも。
このあたりの経緯はもちろん現地で聞き取り調査などすべきところではありますが、
さしあたりそのように勝手ながら思わせてもらうことにします。

道路向かいでは地域住民をずっと守り続けきたであろう道祖神や石碑たちが
しっかりとした造りの覆い屋のなかで大切にされていました。
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あるいはあと100年も経てば、こうした火の見やぐらの台柱たちも
100年後の石造文化財研究家たちによって地域の伝統文化を検証する材料として
大事に保護されるような時代に変化していくのでしょうか。
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(取材日:2015年3月23日)



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ある日、森の中、火の見やぐらに、出会った♪ [火の見櫓(安曇野市)]

安曇野市明科、潮沢の小日向地区に立つ火の見梯子。
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やぐらではないのでタイトルは正確ではないのですが、ご容赦を。

潮沢地区にまちづくりのプロジェクト関係で現地調査に出向いたのですが、
その際に探索エリアの山道を歩いていると偶然出会った次第。

小日向地区は山腹に少数の民家が点在する山里。
この火の見梯子の周辺には数えるほどの民家しかなく
(感じた限りでは2軒くらいではなかったかと。)
おそらく集落の中心から急坂を登ってきた、その坂の途中にあるため、
上方もしくは下方で火災が起きた際の連絡中継地の役割があったのでしょう。
さらには見通しが非常によいため、小日向地区よりさらに下の
沢沿いの集落まで半鐘の音を届ける役割も担っていたかもしれません。
距離からすると沢まで音が届くかどうかは微妙ですが、
しんと静まり返った夜中の音なら十分聞こえたのではないでしょうか。(適当に推測)
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アルプスは雲のなかでしたが、晴れていれば
常念岳とのツーショット写真が撮れていたはず。

上部がひん曲がってしまっている華奢で寂れた梯子の様子に対して
半鐘の立派な姿がかえって郷愁を誘います。
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潮沢の他の集落では類型の半鐘が盗まれた事件もあったそうですが、
ここの半鐘は幸いにしてこれまで無事に守られてきたようです。

それにしても偶然に出会いはときめきますね。
同伴者が10人くらい居た今日の踏査作業でしたが、
急な坂道をゼイゼイしながら登ってきた先に半鐘の影が見えたとき
疲れが一気に吹き飛んでしまったのは、きっと自分だけでしょう。
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(取材日:2015年3月13日)




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