難波橋のライオン [その他]
このところ新規の取材に行けずに悶々としているので、
鬱憤晴らし(?)で過去に取材したのに記事にしていなかったものを
順次あげていくことにしたいと思います。
どこまで続くかわかりませんがw
昨年暮れに大阪へ出向いた際に無理やり時間を作って寄り道した、、、難波橋。
中之島の風景がいい角度で眺められるビューポイントですね。
そんな大都会の橋のたもと、
どこからどう見ても周囲に神社や火の見やぐらがあるようには見えません。
そこにあるのはただの狛、、、否、ライオン像が一対のみ。
(正確に言えば、橋の両端に一対ずつ、計二対となります。)
難波橋は堺筋にあり、中之島の両側を流れる堂島川と土佐堀川を渡る橋。
歴史は古く、現在は天神橋&天満橋と並び浪華三大橋と称されているそうで、
江戸時代には公儀橋と呼ばれる幕府の公共工事による橋であったとのこと。
現在の橋は大正4年(1915)築造で、昭和50年の架け替え大改修を経て今に至っており、
ライオン像はその大正4年の新築当時に設置されたものだそうですが、
ネット情報によればヨーロッパの有名な橋にならってライオンの石像が設置されたとあります。
(外部リンク:京阪電車「京阪沿線の名橋を渡る:難波橋」)
その他ネットに出回っている情報のなかで確かなのは、
この像の作者が兵庫県三田市出身の彫刻家、天岡均一であるということ。
その発注者は当時の大阪市長、池上四郎。
台座を含めた高さが約3.5mで、素材は花崗岩製。
そのほか、Wikipediaなどには天王寺動物園のライオンがモデルだとか、
和歌山にこれと瓜二つのライオン像があることから、その設置場所の当時の所有主である
相場師の松井伊助が寄贈したという説があるらしいですが、
その辺の仮説は裏付けがまだ取れていない模様です。
橋げたに動物や霊獣の類が据えられる例は他にも見受けられます。
日本でもっとも有名なのは、やはり東京日本橋の獅子と麒麟の像でしょうか。
古来、橋は異界と人間界を結ぶ要所であるとされていることから、
こうした霊獣の類が据えられるのは神社における狛犬と同じ役割を
担ってのことと定義づけられることが一般的のようで、
日本橋もそうした意味が込められていると語られています。
では難波橋のライオンたちにその役割が与えられていたのかどうか。
ネットでざっくり調べた限りでは、そこまで詳しく出回っていないようなので、
どなたかご存知の方いらっしゃったら教えていただければうれしいです。
仮にヨーロッパの橋のそれを真似たとする上述の説明が事実だとすれば、
ヨーロッパではライオンは守護獣としての役割を担っていたとされていますから
難波橋でもそうした役割があったとしても決して不思議ではないと思われます。
ましてや北詰南詰ともに阿吽一対で作られているわけですから、
神社の狛犬と同じ発想をもって作られたと考えるのは自然なことかもしれません。
もちろん、そこまでの意味はなかったという考えも否定できるものではないですが。
そんな詳細がよく分からないなかで自分が気になるのは、阿吽になっているその左右の配置。
神社などにいる狛犬たちは向かって右を阿形、向かって左を吽形とするのが基本です。
ところが難波橋のライオンの阿吽はそれとは逆で、手前から向かって左が阿形、
向かって右側が吽形として配置されています。
そして東京日本橋の橋詰に配置されている獅子像もまた、
じつは同じように向かって左が阿形、向かって右が吽形になっているのです。
(↑東京日本橋の獅子像)
単なる偶然かもしれません。しかし神社に数多くの狛犬が奉献されている大正時代でもあり、
作者の天岡均一も阿吽の基本配置の知識がなかったとは考えにくい話です。
しかも明治44年(1911)に作られた日本橋の獅子&麒麟像から約4年後に
この難波橋が築造されライオン像が据えられたということからすると、
あるいは日本橋を意識するかたちでライオンが作られたという想像も膨らんでしまいます。
あとひとつ、ふと思ったのは橋の南詰が北浜というその立地。
北浜といえば三越(大阪店。2005年閉店。)。
そして三越といえばライオン像。
(過去エントリー記事「三越の狛犬・・・もとい、ライオン」
東京日本橋の三越本店にライオン像の設置されたのは大正3年(1914)で
北浜の開店は大正6年(1917)。北浜の開店時期から考えれば
橋のライオンとの関連性は低いですし、そもそも有名百貨店といえども
公共の橋のそれと民間との関係を論じるのはかなり無理があるとは思いますが、
東京の三越本店の立地が日本橋の橋のたもとであり、
難波橋と堺筋沿いにあった大阪三越店が目と鼻の先の距離であることを考えると、
無理を承知でどうしてもそうした想像を膨らませてしまいます。
まあ三越と橋の関係性についての“妄想”に近い想像はさておき、
明治後期から大正にかけての日本というと、日露戦争を経験する中で
よりいっそうの近代化=西洋化が都市部において進行していった時期だったでしょうし、
そんな時代背景のなかで西洋風のライオン像を制作することは、
官民問わず、ある意味その当時のトレンドだったのかもしれないですね。
北浜といえば大阪取引所(旧大阪証券取引所)。
公正な商取引ができているか、ライオンさんがしっかり睨みをきかせていましたとさ。
(取材日:2014年12月13日)
鬱憤晴らし(?)で過去に取材したのに記事にしていなかったものを
順次あげていくことにしたいと思います。
どこまで続くかわかりませんがw
昨年暮れに大阪へ出向いた際に無理やり時間を作って寄り道した、、、難波橋。
中之島の風景がいい角度で眺められるビューポイントですね。
そんな大都会の橋のたもと、
どこからどう見ても周囲に神社や火の見やぐらがあるようには見えません。
そこにあるのはただの狛、、、否、ライオン像が一対のみ。
(正確に言えば、橋の両端に一対ずつ、計二対となります。)
難波橋は堺筋にあり、中之島の両側を流れる堂島川と土佐堀川を渡る橋。
歴史は古く、現在は天神橋&天満橋と並び浪華三大橋と称されているそうで、
江戸時代には公儀橋と呼ばれる幕府の公共工事による橋であったとのこと。
現在の橋は大正4年(1915)築造で、昭和50年の架け替え大改修を経て今に至っており、
ライオン像はその大正4年の新築当時に設置されたものだそうですが、
ネット情報によればヨーロッパの有名な橋にならってライオンの石像が設置されたとあります。
(外部リンク:京阪電車「京阪沿線の名橋を渡る:難波橋」)
その他ネットに出回っている情報のなかで確かなのは、
この像の作者が兵庫県三田市出身の彫刻家、天岡均一であるということ。
その発注者は当時の大阪市長、池上四郎。
台座を含めた高さが約3.5mで、素材は花崗岩製。
そのほか、Wikipediaなどには天王寺動物園のライオンがモデルだとか、
和歌山にこれと瓜二つのライオン像があることから、その設置場所の当時の所有主である
相場師の松井伊助が寄贈したという説があるらしいですが、
その辺の仮説は裏付けがまだ取れていない模様です。
橋げたに動物や霊獣の類が据えられる例は他にも見受けられます。
日本でもっとも有名なのは、やはり東京日本橋の獅子と麒麟の像でしょうか。
古来、橋は異界と人間界を結ぶ要所であるとされていることから、
こうした霊獣の類が据えられるのは神社における狛犬と同じ役割を
担ってのことと定義づけられることが一般的のようで、
日本橋もそうした意味が込められていると語られています。
では難波橋のライオンたちにその役割が与えられていたのかどうか。
ネットでざっくり調べた限りでは、そこまで詳しく出回っていないようなので、
どなたかご存知の方いらっしゃったら教えていただければうれしいです。
仮にヨーロッパの橋のそれを真似たとする上述の説明が事実だとすれば、
ヨーロッパではライオンは守護獣としての役割を担っていたとされていますから
難波橋でもそうした役割があったとしても決して不思議ではないと思われます。
ましてや北詰南詰ともに阿吽一対で作られているわけですから、
神社の狛犬と同じ発想をもって作られたと考えるのは自然なことかもしれません。
もちろん、そこまでの意味はなかったという考えも否定できるものではないですが。
そんな詳細がよく分からないなかで自分が気になるのは、阿吽になっているその左右の配置。
神社などにいる狛犬たちは向かって右を阿形、向かって左を吽形とするのが基本です。
ところが難波橋のライオンの阿吽はそれとは逆で、手前から向かって左が阿形、
向かって右側が吽形として配置されています。
そして東京日本橋の橋詰に配置されている獅子像もまた、
じつは同じように向かって左が阿形、向かって右が吽形になっているのです。
(↑東京日本橋の獅子像)
単なる偶然かもしれません。しかし神社に数多くの狛犬が奉献されている大正時代でもあり、
作者の天岡均一も阿吽の基本配置の知識がなかったとは考えにくい話です。
しかも明治44年(1911)に作られた日本橋の獅子&麒麟像から約4年後に
この難波橋が築造されライオン像が据えられたということからすると、
あるいは日本橋を意識するかたちでライオンが作られたという想像も膨らんでしまいます。
あとひとつ、ふと思ったのは橋の南詰が北浜というその立地。
北浜といえば三越(大阪店。2005年閉店。)。
そして三越といえばライオン像。
(過去エントリー記事「三越の狛犬・・・もとい、ライオン」
東京日本橋の三越本店にライオン像の設置されたのは大正3年(1914)で
北浜の開店は大正6年(1917)。北浜の開店時期から考えれば
橋のライオンとの関連性は低いですし、そもそも有名百貨店といえども
公共の橋のそれと民間との関係を論じるのはかなり無理があるとは思いますが、
東京の三越本店の立地が日本橋の橋のたもとであり、
難波橋と堺筋沿いにあった大阪三越店が目と鼻の先の距離であることを考えると、
無理を承知でどうしてもそうした想像を膨らませてしまいます。
まあ三越と橋の関係性についての“妄想”に近い想像はさておき、
明治後期から大正にかけての日本というと、日露戦争を経験する中で
よりいっそうの近代化=西洋化が都市部において進行していった時期だったでしょうし、
そんな時代背景のなかで西洋風のライオン像を制作することは、
官民問わず、ある意味その当時のトレンドだったのかもしれないですね。
北浜といえば大阪取引所(旧大阪証券取引所)。
公正な商取引ができているか、ライオンさんがしっかり睨みをきかせていましたとさ。
(取材日:2014年12月13日)