安曇野狛犬三代記 [狛犬・寺社(安曇野市)]
安曇野市三郷温、楡地区の住吉神社。
これもまた、取材していたのに記事アップしていなかったシリーズの一社。
(これ、けっこう長いシリーズになりそうw)
同社は安曇野市の南部に位置し、古くから住吉郷の総社として祀られてきました。
鎮座する位置は黒沢川の末端にあるのですが、同川は扇状地特有の河川として
扇央部にくるにつれ水量が減り、神社手前で水がなくなる水無川となるのですが、
古くより大雨の際にはしばし氾濫して困らせていたそうです。
同社がその鎮護のために置かれたという説もあるようなのですが、
それ以上に語り伝えられているのは、坂上田村麻呂の話。
現在は同社の奥宮となっている西山山麓の角蔵山にあった社を
坂上田村麻呂が同地に移したのが始まりとされているそうで、
境内には田村麻呂の像が建立されています。
歴史好きの一部の研究家によるとこの住吉神社は安曇野の歴史だけでなく
日本史上でもかなり重要な鍵を握る神社ともされているようなのですが、ここでは省略。
というか、歴史を語れるほどの知識は自分にはほとんど備わっていませんので。
旧県社の銘を刻んだ社号標と手水舎を左に見て木造の両部鳥居を抜けると
立派な社叢に囲まれた長い参道が続いています。
そしてその鳥居を抜けてすぐの両脇に、さっそく一対目の狛犬がお出迎え。
明治25年(1892)8月吉日建立。
石工棟梁:重盛支七、城取勘七作。
寄附人:小松甚三。
昭和34年に改修を行っているようですが、本体に補修の痕は見出せないので、
台座などを改めて作り直したかなにかということなのでしょうか。
明治中期の作品は狛犬文化の開化が遅い安曇野では比較的古い年代に属します。
顔のデザインは特徴的でユニークですね。画像はピンボケ・・・。
目玉をムキっと見開いて、阿形は口に玉を咥え、頭に乗せているのはおそらく宝珠。
一方の吽形は右前足で玉を押さえ、頭には角。
顔つきは明治の割にはかなり個性的なのに身体全体の作りはシンプルなんですよね。
尾のデザインは阿吽とも同一で、渦巻きが身体に密着した尾付です。
両脇に石灯籠が並ぶ長い参道を進むと正面に神楽殿。
そしてその奥に立派な拝殿。
拝殿正面の両脇に二対の狛犬が陣取っています。
昭和40年(1965)4月建立。
典型的な岡崎現代型ではありますが、
平成生まれの“なんちゃって岡崎”たちとは違ってこの頃はまだ純岡崎産でしょうし、
デザインは岡崎現代型の完成形といっていい、しっかりした子達です。
阿形の台座にはこのような記銘がありました。
明治19年に奉献された隋神(像)があったようですが、
昭和19年2月に太平洋戦争のために供出とあります。
ブロンズ像であったのでしょう。狛犬でもそのような事例が数多くあったようで、
歴史の悲しい一面を物語っています。
そして吽形の台座には改めてこのような銘文が。
つまり戦後になり、明治時代に隋神を奉献したその末裔の人々が
今度はあらためて石造狛犬を奉献したということのようです。
同じ隋神像とせず狛犬をチョイスした理由はよく分かりませんが、
戦争によって神社と氏子達から奪われてしまった大切なものを、
形がどうであれとにかく復活させたかったということなのでしょう。
氏子さんたちの熱い思いが伝わってくるようです。
伝わってくるのです、が。。。
狛犬ファンの立場からそれでもあえて言わせていただくならば、
この位置への建立はやはり避けて欲しかったかなと。
この位置というのは、大正期制作の狛犬の前面ということでして。
こちら、大正2年(1913)9月建立。
台座正面に「明治三十七八年戦捷記念」とありますが、
日露戦争終結から年数がけっこう経っての奉献だったのですね。
石工は諏訪神宮寺、北原柳太郎です。
北原柳太郎は私が注目している石工のひとりで、安曇野市内では
及木地区の伍社宮の獅子山、そして寺所地区の諏訪松尾神社の狛犬が彼の作品で、
いづれを見ても彼の作風がよく現れた優れた作品といえると思います。
過去記事:伍社宮「安曇野にもある、立派な獅子山」
過去記事:諏訪松尾神社「石工・北原柳太郎の狛犬@諏訪松尾神社」
住吉神社のこの子たちと先の二社の狛犬たちに共通するのは石工だけでなく、
素材がいづれも安山岩の一種である諏訪神宮寺産出の神宮寺石を使用していること。
これは過去記事でも書きましたが、現在はすでに枯渇しており採掘はされておらず、
今はもう伍社宮の獅子山のような大型の作品をこの石で制作することは不可能とのこと。
その意味において素材の面ですでに希少性の高い作品だといえます。
阿形に角、吽形に宝珠となっているのは北原柳太郎の狛犬の特徴。
伍社宮の獅子山のような大型の作品と、同社のこの子たちとは
大きさにおいて対照的ですが、表情の厳しさと彫りの深さ、
それに胴体の炎立つようなデザインもまた両者に共通したデザインですね。
足の指を大半の狛犬に見られる4本ではなく5本で彫り上げている点も
北原柳太郎作品の大きな特徴といえます。
唯一残念だなと思うのは、口や目玉が赤く着色されてしまっていること。
柳太郎の作品に限らず、自分は狛犬に着色は不要だと考える者のひとりですが、
着色は作品を安っぽく見せてしまっている気がして、あまり好きではありません。
もっとも、像の彩色には霊力を高めるためだとか、いろいろと謂われがあるらしいので、
外野の人間があれこれ言うのも憚られるところではあるのですが。
住吉神社は本殿や社叢など、狛犬以外でも魅力はたくさん。
(普通の人にとっては、↑の書き方は前後が逆かもしれませんが。)
本殿は5間社流造で、天明6年(1786)建立。
住吉造ではないものの、屋根飾りは置千木に鰹木3本という住吉大社の様式を採用。
安曇野市の有形文化財指定。
ご祭神は
底筒男命 (そこつつのをのみこと)
中筒男命 (なかつつのをのみこと)
表筒男命 (うはつつのをのみこと)
神功皇后
といった住吉の神様のほか、建御名方命が祀られています。
ご神木のヒノキの巨木も安曇野市天然記念物指定。
境内社の坂上田村大明神と摂社。
参道の入口脇にも蚕影神社の鳥居と、蚕影社はじめ多数の境内社。
社務所も界隈の神社のなかではかなり立派なほうです。
グーグルの航空写真などを見ても鎮守の森は安曇野のなかでは大規模ランク。
狛犬についても複数居る神社が少ない安曇野では貴重な存在といえる神社ですね。
(取材日:2014年3月23日、10月31日)
これもまた、取材していたのに記事アップしていなかったシリーズの一社。
(これ、けっこう長いシリーズになりそうw)
同社は安曇野市の南部に位置し、古くから住吉郷の総社として祀られてきました。
鎮座する位置は黒沢川の末端にあるのですが、同川は扇状地特有の河川として
扇央部にくるにつれ水量が減り、神社手前で水がなくなる水無川となるのですが、
古くより大雨の際にはしばし氾濫して困らせていたそうです。
同社がその鎮護のために置かれたという説もあるようなのですが、
それ以上に語り伝えられているのは、坂上田村麻呂の話。
現在は同社の奥宮となっている西山山麓の角蔵山にあった社を
坂上田村麻呂が同地に移したのが始まりとされているそうで、
境内には田村麻呂の像が建立されています。
歴史好きの一部の研究家によるとこの住吉神社は安曇野の歴史だけでなく
日本史上でもかなり重要な鍵を握る神社ともされているようなのですが、ここでは省略。
というか、歴史を語れるほどの知識は自分にはほとんど備わっていませんので。
旧県社の銘を刻んだ社号標と手水舎を左に見て木造の両部鳥居を抜けると
立派な社叢に囲まれた長い参道が続いています。
そしてその鳥居を抜けてすぐの両脇に、さっそく一対目の狛犬がお出迎え。
明治25年(1892)8月吉日建立。
石工棟梁:重盛支七、城取勘七作。
寄附人:小松甚三。
昭和34年に改修を行っているようですが、本体に補修の痕は見出せないので、
台座などを改めて作り直したかなにかということなのでしょうか。
明治中期の作品は狛犬文化の開化が遅い安曇野では比較的古い年代に属します。
顔のデザインは特徴的でユニークですね。画像はピンボケ・・・。
目玉をムキっと見開いて、阿形は口に玉を咥え、頭に乗せているのはおそらく宝珠。
一方の吽形は右前足で玉を押さえ、頭には角。
顔つきは明治の割にはかなり個性的なのに身体全体の作りはシンプルなんですよね。
尾のデザインは阿吽とも同一で、渦巻きが身体に密着した尾付です。
両脇に石灯籠が並ぶ長い参道を進むと正面に神楽殿。
そしてその奥に立派な拝殿。
拝殿正面の両脇に二対の狛犬が陣取っています。
昭和40年(1965)4月建立。
典型的な岡崎現代型ではありますが、
平成生まれの“なんちゃって岡崎”たちとは違ってこの頃はまだ純岡崎産でしょうし、
デザインは岡崎現代型の完成形といっていい、しっかりした子達です。
阿形の台座にはこのような記銘がありました。
明治19年に奉献された隋神(像)があったようですが、
昭和19年2月に太平洋戦争のために供出とあります。
ブロンズ像であったのでしょう。狛犬でもそのような事例が数多くあったようで、
歴史の悲しい一面を物語っています。
そして吽形の台座には改めてこのような銘文が。
つまり戦後になり、明治時代に隋神を奉献したその末裔の人々が
今度はあらためて石造狛犬を奉献したということのようです。
同じ隋神像とせず狛犬をチョイスした理由はよく分かりませんが、
戦争によって神社と氏子達から奪われてしまった大切なものを、
形がどうであれとにかく復活させたかったということなのでしょう。
氏子さんたちの熱い思いが伝わってくるようです。
伝わってくるのです、が。。。
狛犬ファンの立場からそれでもあえて言わせていただくならば、
この位置への建立はやはり避けて欲しかったかなと。
この位置というのは、大正期制作の狛犬の前面ということでして。
こちら、大正2年(1913)9月建立。
台座正面に「明治三十七八年戦捷記念」とありますが、
日露戦争終結から年数がけっこう経っての奉献だったのですね。
石工は諏訪神宮寺、北原柳太郎です。
北原柳太郎は私が注目している石工のひとりで、安曇野市内では
及木地区の伍社宮の獅子山、そして寺所地区の諏訪松尾神社の狛犬が彼の作品で、
いづれを見ても彼の作風がよく現れた優れた作品といえると思います。
過去記事:伍社宮「安曇野にもある、立派な獅子山」
過去記事:諏訪松尾神社「石工・北原柳太郎の狛犬@諏訪松尾神社」
住吉神社のこの子たちと先の二社の狛犬たちに共通するのは石工だけでなく、
素材がいづれも安山岩の一種である諏訪神宮寺産出の神宮寺石を使用していること。
これは過去記事でも書きましたが、現在はすでに枯渇しており採掘はされておらず、
今はもう伍社宮の獅子山のような大型の作品をこの石で制作することは不可能とのこと。
その意味において素材の面ですでに希少性の高い作品だといえます。
阿形に角、吽形に宝珠となっているのは北原柳太郎の狛犬の特徴。
伍社宮の獅子山のような大型の作品と、同社のこの子たちとは
大きさにおいて対照的ですが、表情の厳しさと彫りの深さ、
それに胴体の炎立つようなデザインもまた両者に共通したデザインですね。
足の指を大半の狛犬に見られる4本ではなく5本で彫り上げている点も
北原柳太郎作品の大きな特徴といえます。
唯一残念だなと思うのは、口や目玉が赤く着色されてしまっていること。
柳太郎の作品に限らず、自分は狛犬に着色は不要だと考える者のひとりですが、
着色は作品を安っぽく見せてしまっている気がして、あまり好きではありません。
もっとも、像の彩色には霊力を高めるためだとか、いろいろと謂われがあるらしいので、
外野の人間があれこれ言うのも憚られるところではあるのですが。
住吉神社は本殿や社叢など、狛犬以外でも魅力はたくさん。
(普通の人にとっては、↑の書き方は前後が逆かもしれませんが。)
本殿は5間社流造で、天明6年(1786)建立。
住吉造ではないものの、屋根飾りは置千木に鰹木3本という住吉大社の様式を採用。
安曇野市の有形文化財指定。
ご祭神は
底筒男命 (そこつつのをのみこと)
中筒男命 (なかつつのをのみこと)
表筒男命 (うはつつのをのみこと)
神功皇后
といった住吉の神様のほか、建御名方命が祀られています。
ご神木のヒノキの巨木も安曇野市天然記念物指定。
境内社の坂上田村大明神と摂社。
参道の入口脇にも蚕影神社の鳥居と、蚕影社はじめ多数の境内社。
社務所も界隈の神社のなかではかなり立派なほうです。
グーグルの航空写真などを見ても鎮守の森は安曇野のなかでは大規模ランク。
狛犬についても複数居る神社が少ない安曇野では貴重な存在といえる神社ですね。
(取材日:2014年3月23日、10月31日)