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三社様の狛犬たち [狛犬・寺社(東京都)]

いまや世界的な観光スポットとなった
東京台東区浅草、浅草寺。
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の、本堂東隣に鎮座する浅草神社。
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土師真中知命(はじのまつらのみこと)
檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)
檜前武成命(ひのくまのたけなりのみこと)

社伝による創建の伝承はいろいろ物語があるようですが、
実際は平安末期~鎌倉期にかけて祭神の後裔が
崇祖の思いから創建したものであろうとされているようです。
詳しくはこちらの由緒書き、または同社HPへ。
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浅草神社HP

狛犬ですが、同社には自分が確認しただけで三対います。
まず正面鳥居をくぐって拝殿に向かう途中の一対。
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がっしりした石組みの上に蹲踞する江戸獅子。
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足座がなくそのまま石組みに本体が据えられていて、
石組みにいろいろ文字が刻まれています。

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「天保七(1836)丙申三月」。
建立や奉献の文字はないですが、
まあこれを建立年と考えて差し支えないでしょう。

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「山川町大工虎五郎」。
山川町というのはかつて浅草にあった町名のようですね。

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「象潟町 大岩」。
象潟も浅草にかつてあった町名のようです。
こちらが石工さんの名前になるのでしょうか?
などと思っていると別の石にも文字が刻まれていました。

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「田町 文三郎」。
こちらも町名と名前のみで奉献主なのか石工なのか判然としません。

詳しく調査したわけではないのでなんともいえませんが、
常識で考えて大工がこれを彫り上げたとは想像できないので
少なくとも虎五郎は奉献主と置いて差し支えないと思います。

では田町の文三郎と象潟町の大岩が石工かどうかの検証ですが、
刻まれた名前のパターンからすれば文三郎が虎五郎とともに献主で
大岩を石工と考えるのが普通のような気もします。

ネット上でも、とくに狛犬の杜別館さんに詳しい解説付きで掲載がありましたが、
やはり石工=象潟町の大岩、献主=田町の文三郎&山川町虎五郎、
となされていました。

ただ、奉献主として並ぶ両名の名前のうち、
虎五郎は台座上部に横書きで、文三郎は石工であろうとされている大岩と
同じようなデザインパターンで縦書きによって施されています。
どうもそのへんが自分的にしっくり来なくて、でも資料不足なのでなんともいえず。
もしかして自分が知らないだけで“象潟町の大岩さん”というのは
石工さんとして史料にも名をのぞかせている人なのかもしれませんが。
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次に拝殿前の一対。
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三段組のしっかりした台座の上にブロンズ像の蹲踞タイプ。
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台座に献主と奉献事由、建立年が記されています。
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「浅草神社社殿復元記念 三社睦会 昭和三十八(1963)年五月」。

浅草神社の本殿及び幣殿、そして拝殿は国重要文化財指定。
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社伝によると本殿などは慶長2(1649)に将軍家光公により建立寄進とあります。
その復元ということですから、なにか大改修でもあったのでしょうかね。

ちなみにウィキペディアでは重文指定を昭和36年としているのですが、
同社HPでは昭和26年となっています。
おそらくウィキの誤記だろうと思い、文化庁のデータベースで念のためチェックしたら
昭和21年指定とありました。・・・はてさて、どゆこと?

三対目は同社に限らずこの日の取材ツアーでもっとも出会いたかった一対。
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参道や拝殿前ではなく、すでにご隠居さんとして境内の一角にて
静かに余生を過ごしているといった感じの一対です。

夫婦狛犬として紹介されているようで、由緒書きが用意されていました。
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ここにも書かれていますが、足座の部分に文字が刻まれていまして。
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「諸願成就」

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「品川町裏河岸 鈴木平吉」

石工名と建立年は残念ながら刻まれていないようです。
上の由緒書きでは1600年代後半~1700年代前半と推定していますが、
まあおそらくその頃の可能性がもっとも高いと自分も思います。

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同時代の江戸狛犬は数多く取材したわけではないですが、
スタンダードなデザインといっていいのではないでしょうか。

この子の存在を知り、いつか会ってみたいと思ったのには理由があって、
それは穂高神社若宮社の狛犬たちのルーツを知る手がかりになるのではと思ったから。
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若宮社前の狛犬一対は明和6年の制作で、
江戸で作られて穂高神社まで運ばれてきたことは判っているのですが、
具体的な出生の状況(彫った石工さんとか)までは情報がハッキリしません。

本ブログ(2013/01/13)穂高神社の記事

浅草神社のこの夫婦狛犬と称されている子たちは、事前にネットに出回る画像を見る限り
穂高の子たちと大きさや全体の造形が似通っている印象があったため、
ひょっとするとなにかしら繋がりがあるのでは?と期待して訪れてみたのですが。。。
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結論から言って、まあ当然かもですが、とくに手がかりになるようなことは何も無し。
全体の大きさなどはたしかに似ているところはありますが、
細かなデザインはぜんぜん違いました。
頭部の窪みが両社の狛犬ともに存在する特徴とはいえ、
この子たちに限らず江戸中期の狛犬にはよく見かけるものですし、
だいいち穂高神社の子は首を振っていますが、この夫婦狛犬は正面を見据えています。
劇的な展開も多少は期待しましたが、残念ながら同一石工さんではないでしょう。
いづれにしても石工名が残っていないのは惜しいですね。

ただ、年代的にそう遠くない時期に制作された両者だろうと思います。
穂高の子達の奉献主が江戸深川在住の商人だったことを合わせ考えると、
同じ石工さんの作品ではないにしても、浅草のお宮で楽隠居(?)中の夫婦狛犬さんたちとは
ひょっとしたら親戚筋に当たるかもしれない、、、、とか、いろいろと楽しい妄想はつきません。

ところで足座の側面側に刻まれている文字についてですが。
まあ文字の内容は上にも書いた通りで、それはべつにいいんですけど、
現在置かれている状態で阿吽とも向かって左手側面に文字があるのです。
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つまり、元あった状態に阿吽の顔が向き合って正対していたとすると
阿形は参道手前側に文字があり、吽形は参道奥側に文字があったことになります。

また、顔が正対せず参道に対して平行に据えられていたと考えると、
阿形は参道内側に文字が向き、吽形は参道外側に文字が向いていたことになります。

まあ狛犬に文字を刻む位置程度、どうでもいいっちゃあそうなんですが、
それが全く異なる内容同士ならまだしもなんですが、
同じ奉献主の名前の刻字だったので、なんとなく違和感を覚えた次第です。
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さて、本殿の北側に末社の被官稲荷社へと移動。
社殿前にお約束の狐さんがいました。
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手にしているのは鍵のようですが、房付きの立派な仕様ですね。

同社の由緒はこちら。
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江戸後期の町火消しとして有名な新門辰五郎ゆかりの社ということのようです。

小ぶりな一間社流造の本殿は幕末に祀られて以降、
関東大震災も東京大空襲も無事に生き長らえた、貴重な社殿とのこと。
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ところで浅草神社は浅草寺の本堂すぐの位置に隣接しています。
その浅草寺の境内一角に恵比須・大黒天堂という小さなお堂があり、
本尊の石像は江戸前期の作とされているそうなのですが、
そのお堂の前にも小ぶりで可愛らしい古い狛犬さんが一対鎮座しています。
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阿吽で正面に向き、少し顔を持ち上げているような格好で蹲踞していました。
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先ほどの浅草神社の夫婦狛犬とどことなく雰囲気は似ており
制作も同年代くらいかなという印象も在ります。
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その制作年、ネット上の情報では延宝三年との話が一部出回っていましたが、
お堂脇の由緒書きでこの年代が示しているのは恵比須と大黒天の石像のことで、
この解説を読む限りでは狛犬まで含まれるとは考えづらいところです。
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自分が見た限りでは狛犬本体にそれらしき刻字がありませんでした。
もしかしたら赤い前掛けをめくってみたらお腹あたりに刻まれていたのかどうだか。
あるいは寺に残る古文書などにはその旨が明記されているけれども
現地の由緒書きではたまたまそこまで明示されていないだけ、なのかもしれません。

いづれにしても、見た目の印象から江戸中期頃の作品ではなかろうかと
自分も考えるところではありますけれども。
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浅草寺界隈はまたしてもゆっくり楽しむことができませんでした。
前回訪れたのはもう9年近く前の初詣。
二年参りで死ぬ思いをしながらの参拝だったりしたので、
そのときは落ち着いて浅草を楽しむこともなく。
そして今回もまた日帰り所用のついでに敢行した取材だったため
狛犬の撮影以外にほとんど時間を使うこともなく退散してしまいました。
ホントは仲見世あたりでもう少しゆっくりしたかったのですが。

とくにこの仲見世の様子の写真。
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じつはこの画像の右手には浅草寺本坊の伝法院があるのですが、
その仲見世に面した一角に立派な薬医門が立っています。
その薬医門、じつは松本市小俣の、とあるお屋敷に建てられていた門ということで
それが訳あって伝法院へと移築されたのだという話を以前にある方から伺いまして。
これは浅草に出向いたら写真を撮っておかねば、と思っていたのですが、
なんと現地に行くと同門の前のフェンスには何枚もの「写真撮影禁止」の張り紙。
理由は書かれていないのですが、ここは幼稚園の通用門がすぐ隣にあり、
もしかするとそのプライバシーの問題などからそうなされてしまっているのかもしれません。
真相は不明ですが、いづれにしても禁止の張り紙を無視してまで撮影できるほど
非常識な人間にはなれない自分なので、泣く泣く撮影は諦めた次第でした。

でも、ネットを見るとけっこう写真が出回っているんですよね。
そんなのを見ていると撮影してもなにも言われないのではと思ったりもしますが、
事情が分からないうちはやはり撮るのは躊躇われますし、仕方ないですね。

ということで、最後の一枚は伝法院の撮影不許可な薬医門の兄弟門だとされている、
安曇野市堀金岩原にある、大庄屋山口家の薬医門です。ご参考まで。
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(取材日:2015年10月15日)



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