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火の見やぐら建設の記録動画(続報) [火の見櫓(安曇野市)]

前エントリーで記事にした火の見やぐら建設記録動画の件。

それを視聴したのは1週間ほど前のことだったのですが、
それは他の8ミリフィルム映像と合わせて編集しなおしたもの。
当然ながら尺の都合でオリジナルから大幅にカットされているわけで、
じゃあオリジナルを見ればもっと内容が充実しているであろうと思い、
付き合いのある教育委員会の伝手を頼って見せてもらうことに成功♪

オリジナル映像は7分ちょっとの尺がありました。
全般的な動画の流れは本編用に編集されたものと大差なかったですが、
惹かれたのはこの鉄骨造の火の見やぐらの先代にあたる
木造やぐらの映像が映っていた場面。

昔はよくあったと思われる3本脚タイプで、うち2本に横桟を渡して
それを梯子として活用していたというスタイルの模様。

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ちなみに前エントリーのものはスキャン画像の取り込みに成功したのですが
今回はPC画面をデジカメ撮影したものなので、画質が↓なのはご容赦を。

この動画は公開されているものではないのですが、
なんとか入手できないものかと現在交渉中(^^;
あぁ、やはり火の見ヤグラーの血が騒ぐww


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火の見やぐら建設の記録動画 [火の見櫓(安曇野市)]

安曇野市は昨年、合併誕生から10周年を迎えました。
その記念事業の一環の官民協働事業のひとつとして、
市民が保有する古い8ミリ動画を集めて資料整理し、
記録映画を制作するというものがありました。

で、完成したのがこちら。
11.JPG1.jpg
いま、安曇野市ではこの記録映画の出前講座を実施中で、
10人以上のグループからの申込があれば上映会を
催してくれることになっています。

そんな懐かしい記録映画のなかに、火の見やぐらが映っていました。
しかも、建設当時の記録映像です。
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場所は安曇野市堀金の田尻地区の火の見やぐら。
現在は残念ながら撤去解体されてしまっており、
なんとも口惜しいところではありますが、
在りし日の思い出というか、懐かしい出来立てホヤホヤ時代の
地域住民が力を合わせて建設していた当時の様子を知ることができる
大変貴重な動画は、火の見やぐら業界としては第一級の資料と
いえるのではないでしょうか。

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消防団が中心となり建設作業に従事している様子。
昭和30年代でもまだ正式呼称は警鐘楼。
ご婦人方はおにぎりなどの炊き出し部隊として活躍し、
クレーンなど使えないこの時代、みんなで引っ張って立ち上げます。

自分が生まれる前の時代。
でも、そんなに遠い昔話ではない頃の風景。

懐かしくもあり、寂しくもあり。

自分が見たDVDは他の資料映像とともに編集されたもの。
近日、火の見やぐら部分のオリジナルを視聴できる予定♪
あぁ、火の見ヤグラーの血が騒ぐw

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2本足が4本足に!? [火の見櫓(安曇野市)]

安曇野市明科、潮沢地区の火の見やぐら。
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国道19号から国道403号に入って筑北村方面へ少し車を走らせると、
道路沿いに消防団詰所と並んで立っている姿を見ることができます。
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田園風景が売りの安曇野市にあって貴重な里山集落の潮沢。
いろんな地域活動の縁があってしょっちゅう出かけるエリアなので
この火の見やぐらはもう数え切れないほど目にしているのですが、
その珍しい立ち姿が以前からずっと気になっていました。

0113ushiozawa2.JPG
真横から見るとこんな感じ。
4本足のタワー型といえば東京タワーのような姿がセオリー。
近年新たに建てられたものだと絞りのないずん胴タイプも見られますが、
ここの子はそれらとはまたちょっと違う感じ。
片側が地面に対して垂直に立ち上がり、もう片方はわずかに傾斜している様子です。
0113ushiozawa4.JPG
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おまけに火の見やぐらとしては珍しい折板屋根を採用。
梯子は落下防止用の柵が、そして脚部は昇降用足掛けがちょこんと付け足されていますね。
0113ushiozawa6.JPG
0113ushiozawa10.JPG
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細かなところはさておき、全体的な形状の不思議さの疑問を解消すべく、
今回思い切って地元住民の方に取材を敢行。
(というほど仰々しいものではないのですが。)

もともと30数年ほど前までは木造の火の見やぐらが立っていたのですが、
詰所の建て替えに伴って新たに鉄骨造のやぐらを新築。
その際、ノーマルな3~4本足タワー型とせず、なぜか2本足で作ったのだそうです。
2本足やぐらの上部には当然ながら半鐘があり、消防団員は梯子を上って打鐘するわけですが、
やはり2本というのは鉄骨であってもグラグラして相当怖かったらしく。

その後、町からの助成金なども受けることができ、
2本の足を付け足してようやく安定感を出すことができたのでした。
それが今から数えて10数年ほど前のことで、屋根もその際に増設したもののようです。

ターンバックルがリング式ではなく建物でよく使用されるノーマルタイプが用いられているのも、
4本足タイプなのに山形鋼ではなく角型鋼がメインの脚部に使われたのも、
そういう背景から建築→改築されたものだったためのようです。
0113ushiozawa7.JPG
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なぜ鉄骨で2本足を作ってしまったのかについてはヒアリングを忘れてしまいましたが、
おそらく従前の木造やぐらが2本足の梯子型だったのかもしれませんね。
それで同じようなデザインでやってみたものの、ことのほか揺れがひどくて
困ったことになってしまったというのが真相ではなかろうかと推測。

のどかな里山の集落に立つ火の見やぐらとしては異質なイメージもしますが、
歴史を振り返るとなるほどなという印象になりますね。
0113ushiozawa1.JPG

(取材日:2016年1月13日)


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取り残された火の見やぐらの台柱、続報 [火の見櫓(安曇野市)]

今年の1月にエントリーした記事、「取り残された火の見やぐらの台柱」。
かつて火の見やぐらの脚部を固定するために用いられた石の柱が、
3本あったうち1本のみとなってしまっていた、というような話でした。
img113.jpg150806koujindou4.JPG
上の写真左が台柱撤去ビフォア、右はアフター。

道路工事かなにかの影響で撤去されたのであろう2本は
工事業者がそのまま持ち出して処分してしまったのだろうと推測していたのです、、、が。

じつは今日、ひょんなことから残りの2本を見つけてしまいまして。
それが、こちら。
150806koujindou1.JPG
お分かりいただけただろうか?(←なぜか心霊特番ナレーション風w)

ここは同じ市内の同じ地区内、牧地区荒神堂集会所。
その門柱としてなんと再利用されていたのでした。

集会所はもとあった場所から西へ150メートルほど行った目と鼻の先。
しょっちゅう通っている道なのに、ぜんぜん気づきませんでした。

片方の柱には、たしかに“穂高町消防団”の文字が。
もう片方にはもともとなにも刻まれていなかったようです。
150806koujindou2.JPG150806koujindou3.JPG

もともとあった場所よりもいくらか高めに据えられている様子です。
火の見やぐらの台柱としてならある程度の深さが必要であったでしょうが、
門柱で支えるものがなく、倒壊の心配がない程度に埋設は浅く出来るでしょうから、
門柱らしくなるべく背を高く立派に据えたのかもしれません。

火の見ヤグラーとしては元の場所に3本並んで立っているのが理想でありますが、
必要から単純に撤去処分にしてしまわず、このように地域の集会所の門柱として
再活用をしてくれているのも、これはこれでほっこりします。

御影石を門柱に使用した施設や民家は安曇野に数多く存在しますが、
火の見やぐらを支えていた柱を利用したというのはなかなかないでしょう。
ただの門柱としてではなく、地域防災、地域づくりのシンボルタワーでもあった
火の見やぐらの存在を後世に伝える遺構として、大切に残されて欲しいものです。

(取材日:2015年8月6日)



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火の見やぐら on TSB [火の見櫓(安曇野市)]

こちら、安曇野市穂高のまちなかに立つ大型の火の見やぐら。
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過去のエントリー記事にて、この子は生まれが大町市で
黒部ダムの建設工事関連施設(骨材採取製造場)の監視塔として活躍後、
昭和42年に穂高町に嫁入りし、その後火の見やぐらとして第二の人生を始めた
という話を幾度か取り上げたりしてきました。

2013年9月2日の記事
2014年3月9日の記事

外観の特徴もさることながらその特殊な経歴もあって、
新聞やテレビ番組といったメディアでも何度か採り上げてもらう機会がありました。
そんななか先日長野県ローカルの情報番組に取材をしてもらうことができ、
昨日の夕方にまたテレビ画面にこの子の雄姿が登場したのでした。
テレビ出演は昨年5月の長野朝日放送「abnステーション」以来2度目ですね。

2014年5月29日の記事

今回の番組はテレビ信州「ゆうがたGet!」。
特集コーナーで安曇野市を紹介する企画があり、そのコーナーの一部として登場。
じつはこのコーナーの取材に際して自分が半分くらいをコーディネートさせてもらい、
その結果運よく火の見やぐらの話を取り上げてもらうことになったという次第です。
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番組内では建設当時の消防団副団長を務めていた方が登場し、
「後世に残して欲しい」と訴えていました。
いま安曇野市は全国的な流れの例に漏れず、
火の見やぐらの解体撤去が加速度を増して進行しています。
黒部ダム建設に関係した貴重な産業遺産、地域の財産を
簡単に撤去解体などして欲しくないというのは私だけでなく
周囲の多くの人の意見でもあるわけですが、
維持管理している側や立地条件などのネガティブな諸事情が
そうした保全活用の声に耳を傾けてくれる機会を許さないのが実情です。

つい先日も松本市のカタクラモール再開発に絡んで
大正15年建設の貴重な火の見やぐらがあっけなくその命脈を断ち切られたばかりですし、
この穂高町の火の見やぐらもいつ解体話が具体的に進行してしまうか
予断を許さない状況になりつつあります。

自分ひとりが騒いでいるだけではどうにかなるものでもないですが、
地域の住民がこの火の見やぐらに対して関心を高めてもらうことが
まずなにより大事になってくるわけなので、今回のようなメディア露出も利用しつつ
地域が誇るべき貴重な財産だという認識を抱いてもらえるように、
あれこれと保全活用の方策を練りだしてゆきたいと思う次第です。

それにしても、いろいろやりたいこと、なすべきことが多すぎる。
要領の悪いところは改めなくてはだけど、にしても身体がもうひとつ欲しい感覚。。。

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火の見やぐら遺跡、三たび・・・ [火の見櫓(安曇野市)]

木造(またはごく一部の鉄骨造でも)の柱を用いた火の見やぐらの場合、
その柱脚部を石柱の基礎で固定するということがかつては一般的だったようで、
その石の台柱のみが遺構として残されている様子を過去に2回取り上げました。

取り残された火の見やぐらの台柱
安曇野に残る火の見やぐらの遺跡

そして、、、今日、三度目の取材記事となる石造の台柱を発見してしまいました。
2015.03.23.1.JPG
安曇野市穂高柏原、松下地区。

堀金烏川の扇町地区と境を接する同地区の一角、
交差点の片隅にトライアングルに立てられた3本柱が残されていました。

台柱それぞれに文字が見られます。
「大正九年十二月建(設?)」
「柏矢町消防(組?)」
「西穂高村警防団」
2015.03.23.2.JPG
2015.03.23.3.JPG
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足元にあるのは道祖神なのだろうか? 字が読みづらい。
2015.03.23.5.JPG

大町市美麻の木造火の見やぐらの台柱にある年代は大正15年。
それより遡ること6年前に建てられている計算になります。

柏矢町は大糸線柏矢町駅付近の地区名で、この場所から少し離れた場所になりまますが、
消防組の組織は柏矢町の名称でこの地区は活動していたのでしょうかね。

西穂高村は現在の穂高柏原と穂高牧の両地域にあたり、明治22年発足以降
昭和29年に周辺地域と合併して穂高町となるまで存続していた自治体です。
警防団は昭和14年に国の法令によって発足した自警団体で、
消防組はその前身にあたる組織です。
大正9年の銘文が建設年だとすれば、当時は消防組の名前だけだったところに
昭和14年以降になってあとから警防団の名前が空白だった残り一本に刻まれた
というふうに考えることができますが、事実はさてどうなのでしょう。

ところで、、、
今年に入って牧地区の荒神堂に残されていた火の見やぐらの台柱を目にするまで
火の見ヤグラーの自分としてもこうした遺構に目が向くことはありませんでしたが、
一度気になり始めると意識がそちらに向いてしまうというのは、
やぐら自体を発見するのと同じ感覚が機能しているのでしょう。

この台柱のある道路もしょっちゅうではないにせよ、過去に幾度も車で走り抜けている道です。
こうして気になりだすとここ2ヶ月ほどの間に3箇所で発見してしまうということですから、
案外こうした遺構は各所にまだ残されているのかもしれません。
安曇野以外の地域へ出かけたときも、ちょっと気を配ってみれば、あるいは・・・。

それにしても、こうしてやぐら本体を失った台柱がどうしていまだに残されているのか。
別の言い方をすれば、なにゆえやぐら撤去に合わせて台柱を取り除かなかったのか。

このような石の台柱を持つ木造の火の見やぐらは少なくなかったと思います。
(鉄骨造の可能性も無きにしも非ずではあるけれど。)
けっして往来の邪魔とかそういうわけではないですが、
道路整備の一環などで撤去されていても不思議ではなかったはず。
それでも残されていたのにはなにかそれなりの理由があったのか。

大町市美麻新行の火の見やぐらについて、地域住民の方は
「昔の大火のあとに立てられた防災記念碑」の意味を持っていると語っていました。
今回発見した松下地区の台柱や先に見つけた2地区のものに
そのような意味が込められていたかどうかはわかりません。
そこまでの意味がなく、たまたま取り除く手間をかけなかっただけというほうが
納得ができそうな感じもしています。

ただ、大正9年以来の地区の安全を見守ってきた火の見やぐらの一部として
地域住民があえて記念碑の意味を込めて残したとしても不思議ではないかも。
このあたりの経緯はもちろん現地で聞き取り調査などすべきところではありますが、
さしあたりそのように勝手ながら思わせてもらうことにします。

道路向かいでは地域住民をずっと守り続けきたであろう道祖神や石碑たちが
しっかりとした造りの覆い屋のなかで大切にされていました。
2015.03.23.6.JPG

あるいはあと100年も経てば、こうした火の見やぐらの台柱たちも
100年後の石造文化財研究家たちによって地域の伝統文化を検証する材料として
大事に保護されるような時代に変化していくのでしょうか。
2015.03.23.7.JPG

(取材日:2015年3月23日)



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ある日、森の中、火の見やぐらに、出会った♪ [火の見櫓(安曇野市)]

安曇野市明科、潮沢の小日向地区に立つ火の見梯子。
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やぐらではないのでタイトルは正確ではないのですが、ご容赦を。

潮沢地区にまちづくりのプロジェクト関係で現地調査に出向いたのですが、
その際に探索エリアの山道を歩いていると偶然出会った次第。

小日向地区は山腹に少数の民家が点在する山里。
この火の見梯子の周辺には数えるほどの民家しかなく
(感じた限りでは2軒くらいではなかったかと。)
おそらく集落の中心から急坂を登ってきた、その坂の途中にあるため、
上方もしくは下方で火災が起きた際の連絡中継地の役割があったのでしょう。
さらには見通しが非常によいため、小日向地区よりさらに下の
沢沿いの集落まで半鐘の音を届ける役割も担っていたかもしれません。
距離からすると沢まで音が届くかどうかは微妙ですが、
しんと静まり返った夜中の音なら十分聞こえたのではないでしょうか。(適当に推測)
2015.03.13.5.JPG
アルプスは雲のなかでしたが、晴れていれば
常念岳とのツーショット写真が撮れていたはず。

上部がひん曲がってしまっている華奢で寂れた梯子の様子に対して
半鐘の立派な姿がかえって郷愁を誘います。
2015.03.13.2.JPG
2015.03.13.3.JPG
潮沢の他の集落では類型の半鐘が盗まれた事件もあったそうですが、
ここの半鐘は幸いにしてこれまで無事に守られてきたようです。

それにしても偶然に出会いはときめきますね。
同伴者が10人くらい居た今日の踏査作業でしたが、
急な坂道をゼイゼイしながら登ってきた先に半鐘の影が見えたとき
疲れが一気に吹き飛んでしまったのは、きっと自分だけでしょう。
2015.03.13.6.JPG
2015.03.13.4.JPG

(取材日:2015年3月13日)




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安曇野に残る火の見やぐら遺跡 [火の見櫓(安曇野市)]

(2015年2月17日記事エントリー後、2月18日に訂正を追記しました。)


火の見やぐらは普段その存在をほとんど意識することがないものなのに、
ひとたび気になりだすと目に付いてどうしようもなくなる存在。

火の見ヤグラーを自称するようになってからは
車を走らせながら視界の隅にそれらしき影が飛び込んできただけで
火の見やぐらをその場所に認識することが出来てしまったり、
さらには姿かたちが見えていないのに脳内の火の見やぐらセンサーが急に動き始め、
センサーの反応にしたがって車を走らせると「あ、あった。」となってしまったり。
完全に重度の火の見やぐら中毒にかかった症状が続いて今に至っている状況。

で、ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、何が書きたいのかというと
一度意識が芽生えてしまうと、今まで見えていなかったもの
(正確には“見えていたのに脳が反応していなかったもの”)に対して
意識がしっかりと働いて目に飛び込んで来たものを認識するようになる
ということを、改めて今日思い知らされたという話でして。


先月エントリーした記事のなかで、安曇野市穂高の牧地区に残る
石製の火の見やぐら台柱について記事をしたためました。
2015.01.29.1.JPGimg113.jpg
(2015年1月30日:取り残された火の見やぐらの台柱

その後、透明タペストリーのU1教授が追取材のうえ記事をアップしてくださり、
美麻新行地区の木造火の見やぐらだけでなく
池田町長野市で過去に取材した鉄骨やぐらたちも
足元を石柱で固定したものがあったのを思い出させてもらいました。

そんなわけで台柱(火の見やぐらの脚部を補強固定する柱)が
その牧地区に残された台柱以降なんとなく意識されるようになったわけですが、
明らかにその意識の賜物と言い切っていい出来事が起こってしまったのがこちら。
2015.02.17.shinden1.JPG
この画像、安曇野市豊科の新田地区の国道147号線沿い。
穂高方面から南進すると右手に蔦屋書店豊科店がありますが、その真向かい。
2015.02.17.shinden6.JPG
ブロック塀と電柱や広告塔などに囲まれるようにひっそりと立ち、
蔦のような草に絡まれてしまっている石柱3本。

一番北寄りの柱には「新田消」の文字。
そして南寄りの柱には「大正四年四月建」の文字。
2015.02.17.shinden2.JPG2015.02.17.shinden3.JPG
文字が埋もれてしまっていますが、
新田消防組が大正4年(1915)4月に建設した火の見やぐらの台柱であると考えて
ほぼ間違いないでしょう。(消防組は戦前に存在した、現在の消防団の前身。)

これまでどれだけ車で走ったか分からないほど日常的に使用している生活道路。
火の見やぐらを意識し始めて以降も相当な回数を通過しているはずなのですが、
今までまったくこの台柱の存在に気づくことはありませんでした。
考えてみると牧地区の台柱を取材した日以降、この場所を通過したのは
今日が初めてですね。いやはや、意識というものは恐ろしいものです。

文字の一部が埋もれてしまったのは
道路がここ数十年の間にどんどん高くなってしまった影響と思われます。

目算で背丈はだいたい110~120センチほど。
埋もれてしまった部分を勘案すると、
牧地区で見たものに近いサイズだったのではとも考えられます。

それぞれに開けられているボルト穴はかなり大きく、直径4センチくらいあるでしょうか。
2015.02.17.shinden4.JPG

ここで過去に同じ新田地区の火の見やぐらについて取り上げた
記事の中身について思い出してみました。
(2012年1月7日の記事:豊科成相新田に立つふたつの火の見櫓
2012.01.07.1.JPG2015.02.17.shinden9.JPG
現在の新田地区の火の見やぐらは鉄骨製3脚柱の高層タイプ。
正月には立て御柱と並び立つ姿が有名な一基です。

そしてその記事のなかに古い写真を掲載したのですが、それがこちら。
2015.02.17.shinden10.jpg
おそらくこの画像の木製の火の見やぐらが、この台柱の場所に立っていた子なのでしょう。
(確実な裏付けがないので、あえて“おそらく”としておきます。)

古写真の撮影時期は昭和32年1月16日だそうですが、
先のエントリー記事のなかでこの古写真のことをこのように解説してしまっていました。

「・・・写っている状況から推測して今の火の見櫓とは
道路を挟んだ反対側にあったように感じます。・・・」

この解説は画像に写っている人影の向きなどから推測した結果だったのですが、
それは誤りであったと考えていいでしょう。

仮にこの台柱が古写真の火の見やぐらのものだとすれば、
写真の撮影ポイントと推測される場所から見た現在の景色はこんな感じ。
2015.02.17.shinden8.JPG
残念ながら古写真には脚部の様子が写っておらず裏付け調査もまだなので
100%断定できないですが、自分はもうこれが間違いないと確信しています。
(嘘ついてたらごめんなさい。。。)

******************************
(※2月18日訂正)
古写真について、今回取材した台柱の場所を写したものであろうと記しましたが、
これはそうではなく、もとの新田の火の見やぐらを取材したエントリー記事に
当初記したように、現在の鉄骨やぐらの対面にあった木造やぐらを
撮影したものである公算のほうがどうやら高いようです。
2015.02.17.shinden12.JPG
ということで、いづれにしても確証がないため原文はそのまま残しますが、
いちおう上記の古写真に関する記述内容は一部訂正させて頂きます。
******************************

そして台柱の位置から南方に立つ現在の火の見やぐらを望むとこんな感じです。
2015.02.17.shinden5.JPG
現火の見やぐらは現地に建設年を記した銘板はないのですが、
昭和37年に撮影された空撮写真にその存在が認められるので、
30年代半ばまでには建設されたと考えてよいと思われます。
新旧、木造から鉄骨造へと転換が図られたのだとすれば
台柱に支えられていた古写真の木製火の見やぐらは
鉄骨やぐら建設のタイミングで解体撤去されたと考えるのが妥当でしょう。
仮にそうだとすれば、いま目の前に立つ台柱は50年以上ものあいだ、
誰にも構われることなくこの往来の激しい国道沿いの傍らで
人々から忘れ去られてしまったかのように、じっと静かに佇んでいたことになります。
なんというか、火の見ヤグラーのひとりとしてちょっと切ない気持ちになってきますね。

そしてじつはちょっと気になるのが、台柱の土地に隣接する空き地で
なにかの建設工事が始まる様子であったこと。
台柱のある狭小地の権利関係がどうなっているのかよく分かりませんが、
仮に工事の行われる隣地と一筆であった場合、
台柱そのものが撤去されてしまう可能性も無きにしも非ず。

個人的にはなんとかこの場に留まっていて欲しいと願うばかりですが、
どうなってしまうのかやきもきする日々が続きそうで、悩ましいです。

大正4年といえば、大糸線(当時は民間の信濃鉄道)が開業した年で、
今年はちょうど開業100周年にあたります。
100年前に据えられた火の見やぐらの台柱。
これだけでじゅうぶんな地域の歴史文化遺産だといえるはずなのですが。

あぁ、工事の影響を受けずになんとか残って欲しい。

(取材日:2015年2月17日)




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取り残された火の見やぐらの台柱 [火の見櫓(安曇野市)]

ある調べごとで穂高町石造文化財の資料本を見ていたところ、
ひとつの写真が目に留まりました。それがこれ。
img113.jpg
タイトルに「その他(火の見櫓台柱) 昭和32年」とあります。
火の見櫓台柱というのはかつて火の見櫓が木造であった頃、
その足元を固めるために用いられていた、いわば基礎のようなもの。

現存する木造火の見やぐらで同類の台柱を用いた事例で有名なものとしては
大町市美麻、新行地区に残る木造火の見やぐらがあります。
2015.01.29.6.JPG
このところの火の見やぐら啓蒙活動の一環で新聞に採り上げてもらったり、
TVニュース番組の火の見やぐら特集で紹介してもらったりしている同やぐらは
地元新行地区の住民によって大切に守られてきた、地域の防災記念碑の
意味合いが強いシンボルタワーとなっています。
過去エントリー記事1
過去エントリー記事2

その新行地区の火の見やぐらの台柱に刻まれた建立年は大正15年(1926)4月。
それに対し、今回見つけた写真の台柱は昭和32年(1957)11月と刻まれています。

木造タワー型の火の見やぐらは基本的に戦前のものというのが一般的イメージで、
戦後の火の見櫓の多くが鉄骨造であろうという感覚が無きにしも非ずなのですが、
鉄骨造の火の見やぐらも戦後で普及を始めるのは昭和30年代になってから。
物資不足の戦後の混乱期を経て社会が落ち着きを取り戻し、
頑強な鉄骨造が出回るまではまだ木造火の見やぐらで対応していた事例も
決して少なくなかったのかもしれません。

ということで、資料の写真の場所を見つけるべく、さっそく現地に行ってみました。
場所は安曇野市穂高牧の荒神堂地区。
広域農道の穂高大橋北詰の交差点を西に入り、山麓に向かって走る途中
荒神堂の集落エリアに入る直前の交差点脇にありました。
2015.01.29.2.JPG
集落から見ると標高の低い側にあたるのですが、
荒神堂地区を含めた牧地区のメインになる火の見やぐらはここより標高の高い
山麓線沿いに立っているので、ここの櫓は中継塔のような役割があったのかもしれません。

が・・・・・・

左が現地のいまの様子なのですが。
2015.01.29.1.JPGimg113.jpg
なんということでしょう!(←劇的ビフォアアフターのナレーション風)
残念ながら残存している柱は一基のみとなっていて、
三基のうちの二基は撤去されてしまっていました。

道路状況を見ると近年に下水道敷設工事をしたような感じなので、
その際三基のうち二基の台柱が邪魔になってしまったのでしょうか。
撤去された二基のうち一基には「穂高町消防団」の文字が刻まれていたようですが、
いまは写真左側の建立年の文字を刻んだ柱が立つのみで、
知らない人がこれを見たらいったい何物なのか分からないでしょう。
似たような形状で神社の祭りで使用する幟立柱がありますが、
幟立は通常二基一対で使用されるので、一基だけ残置されている状態では
幟立柱だろうと考える人も少ないのではと思います。
2015.01.29.3.JPG2015.01.29.4.JPG

資料によれば寸法はH170×巾22×30cmと記載がありました。
新行の火の見やぐらの台柱も人の背丈ほどの高さが在りましたから、
この荒神堂の火の見やぐらも同等の高さがあったのではないかと推測できなくもないです。
2015.01.29.7.JPG
地域住民に取材をかければ、あるいは火の見やぐらの立っていた当時の写真など
画像資料が見つかるかもしれないですね。機会を見つけて探してみたいと思います。

それにしても、三基のうち二基まで撤去しておきながら
一基のみ現地にそのまま残したことになにか意味があったのかどうか。
おそらく工事業者が邪魔になる二基だけ撤去するという市や地区との取り決めのなかで
その通りに実施しただけだろうとは思うのですが、現状を見ると不自然な感が否めません。
あるいは背後にゴミステーションが設置されていることに絡みがあるのか。
はたまた、道路やゴミステーションの邪魔でなければと、せめて一基だけでも残して
ここに火の見やぐらがあった記念碑的な意味合いを持たせようとしたのかもしれません。
(真実の分からない今のところは、そういうふうに好意的に考えることにします。)

冒頭の石造文化財の資料は旧穂高町時代の平成6年に編纂されています。
そこに掲載された写真ですでに火の見やぐらが存在していないということは、
木造のやぐら本体は昭和後期~平成初年にかけて撤去されたということでしょう。
背景は安曇野の大地の向こうに北アルプスの峰々が一望できる絶好のロケーション。
2015.01.29.5.JPG
もし今でもここに木造の火の見やぐらが残されていたとすれば、
新行の火の見やぐらにも劣らない素晴らしい景観要素になりえたことでしょうね。
なんとも惜しいことです。

現地を訪れただけではすべての疑問が解消されないので、
また新たな情報や手がかりが得られれば、続報を入れたいと思います。

(取材日:2015年1月29日)




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高さ不足で脚を付け足した? [火の見櫓(安曇野市)]

長野県安曇野市三郷温、楡地区の火の見やぐら。
2014.05.11.2.nire1.JPG
前エントリーも同じ楡地区の火の見やぐらでしたが、
こちらは集落中心から少し北に向かった先、
楡郵便局の前に立つ消防詰所の敷地内に立っています。

公民館前のものがおそらくメインタワーと思われるので、
こちらはやや低層レベルの火の見やぐらです。
2014.05.11.2.nire2.JPG

ユニークなのは脚部の納まり。
見た感じ、柱を付け足したような印象があるのですが。
2014.05.11.2.nire3.JPG
通常末端部に取り付いているトラスが2段目に装備されていて、
端部は単純に柱部材のみ。

作っては見たものの、計算間違って高さが足りずに付け足したか。
事情は不明なままです。

(撮影日:2014年5月11日)


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