善光寺街道に佇む未完の狛犬 [狛犬・寺社(東筑摩郡)]
火の見ヤグラー師匠U1教授の透明タペストリーにて、数日前に掲載された記事。
「筑北村坂北の狛犬と道祖神」(←クリックで別ウィンドウの外部リンクへ)
なにやら意味ありげな狛犬の様子。
狛犬ヲタの血が騒ぎ、その正体を探るべくさっそく現地へ行ってきました。
長野県東筑摩郡筑北村、坂北。
村役場(旧坂北村の役場)庁舎から程近い場所、
善光寺街道の傍らにその子は文字碑道祖神と並んでポツンと佇んでいました。
(上の画像左側の道路が善光寺街道)
付近の集落に神社はあり、脇道の後方には秋祭りの幟が立てられているものの、
参道狛犬として括るにはあまりに様子がおかしい。
神社の参道と考えるならまず顔の向き(というか設置方向)が前後真逆。
なにより一体だけしか存在しないのでは狛犬として存在意義が薄まります。
この状況の理由について当初推測したのは、相棒破壊説。
一対で神社などにいた子達の片方が諸事情で欠損したたため、
無事だったほうが引退を余儀なくされて別の場所へ移されるというのは
少数ながらも各地で散見される事件だったりします。
そう考えて最寄の神社となる中村神社と呼ばれる社へ出向いてみましたが、
神社の様子からはそれを推し量ることができません。
偶然にも境内で第一村人(=氏子さんふたり)を発見したので質問してみたのですが、
街道沿いの狛犬一体についてその存在はもちろん知っているものの、
設置に至る経緯についてはどちらの方も存じ上げていませんでした。
その後もうひとりの村人に尋ねてみましたが、こちらもアウト。
日曜日という取材日が災いしたか、時間が午前9時~10時頃というのがまずかったか、
屋外に人の気配がほとんどなく、さて困った。
これは出直しかな、そう思ってあきらめかけたそのときであった!
「おい、あそこに人がいるぞ!」(←水曜スペシャル風)
件の狛犬の場所から程近いお宅の庭先で作業しているお母さんを発見。
思い切って尋ねてみると「ずっと昔からそこに在ったの」という注目すべき証言が。
さらに「父ちゃんのほうが詳しいよ」といって家の際までお邪魔させてもらい、
ご主人に話を伺うことができました。
その衝撃的(?)事実を要約すると以下のとおり。
狛犬は近所に居た石屋が彫ったもの。
戦時中から戦後すぐくらいの話で、その石屋は亡くなってしまった。
そのまま石屋に置きっぱなしにしておくのもなんだし、
ということで、現在の場所に設置することにした。
隣にある道祖神は昭和22年頃に祀ったが、それとほぼ同じ頃だった。
ということでした。
そもそもどこの神社のために彫ったものなのかなど、
お父さんの話では肝心の細かな部分がはっきりしないのですが、
大筋が見えてきたところで推測を交えて以下に整理してみますと、、、
おそらくこの子はどこかの神社に奉納する予定で
通常通り一対で制作することになっていたのでしょう。
ところが阿形を作り終えたところで石工さんは他界。
一対として完成しなかったためにとうとう神社に奉納されることはなく、
阿形だけが石屋の加工場に放置されてしまっていた。
戦後になり、近所の方がその狛犬が放置されていることをもったいなく思い、
村の辻に道祖神を祀った事に合わせて同地に引き取ることにした。
以来、道祖神の守護獣よろしく、その傍らで村の安全を見守る役割を果たしている、、、
というふうに考えてみました。
現在でも道祖神については年に一度お祭りはされているそうです。
そう考えると狛犬も一体だけで寂しいかもしれませんが、
道祖神とともに居られることで守護獣の役割をけなげに果たしていると考えても
いいのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
じつはU1教授の記事に載った画像を当初見たとき、
穂高神社の参道にいる昭和15年生まれの狛犬に雰囲気が似ていると感じていました。
年代が違うかもしれないし、単なる気のせいだろうと深く気にも留めていなかったのですが、
戦時中から戦後にかけての制作という証言を聞いたとき、
その最初に感じた印象は的外れというわけでもなかったのではと思うようになりました。
(↑穂高神社、昭和15年制作の狛犬。)
自分は筑北村を含む同地域の神社はほとんど未調査なのですが、
業界(?)に出回っている情報によれば筑北村界隈の神社は
狛犬がそう多くは存在していない模様です。
(近郊では麻績村の麻績神明宮のブロンズ狛犬が有名。)
その背景事情は不明ですが、善光寺平からも松本平からも
石造狛犬の文化がどういうわけか積極的に進出してこなかったのでしょうね。
そのようななか、地元の石工さんが狛犬を制作するに際し、
篠ノ井線の先にある安曇野で随一の知名度を誇る穂高神社を訪れ、
昭和15年に建立されたばかりの立派な狛犬をそのお手本にしたとしても
なんら不思議なことではありません。
彫りの技術的にどちらかといえば淡白な印象を受けるのも、
やはり石工が狛犬を制作慣れしていないため、というふうに考えてしまいます。
上記の穂高神社狛犬モデル説に立って考えるとすると、
その不完全な模倣の結果として、表情や頭部各パーツの作り、胴体と頭部のバランス、
立ち尾の様子などなど、全体的にぱっと見た感じなんとなくこの子のモデルが
穂高神社の子たちだと思える一方、完コピには至らず中途半端な感じで
出来上がってしまったと考えられなくもないわけですが、はてさてどうでしょうかね。
以上、推測部分はホントに私個人の勝手な解釈ですので、
もし明らかな事実と相違があるようでしたら、ぜひコメントを頂戴できれば幸いです。
いづれにしても、ついに一対になり得なかった悲劇(?)の狛犬ですが、
未完のままでも廃棄されず地域の人に大切にされ続けてきたことに、
なんだか気持ちも和んで帰路に着くことのできた、今回の取材調査でした。
(撮影日:2014年9月28日)
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「筑北村坂北の狛犬と道祖神」(←クリックで別ウィンドウの外部リンクへ)
なにやら意味ありげな狛犬の様子。
狛犬ヲタの血が騒ぎ、その正体を探るべくさっそく現地へ行ってきました。
長野県東筑摩郡筑北村、坂北。
村役場(旧坂北村の役場)庁舎から程近い場所、
善光寺街道の傍らにその子は文字碑道祖神と並んでポツンと佇んでいました。
(上の画像左側の道路が善光寺街道)
付近の集落に神社はあり、脇道の後方には秋祭りの幟が立てられているものの、
参道狛犬として括るにはあまりに様子がおかしい。
神社の参道と考えるならまず顔の向き(というか設置方向)が前後真逆。
なにより一体だけしか存在しないのでは狛犬として存在意義が薄まります。
この状況の理由について当初推測したのは、相棒破壊説。
一対で神社などにいた子達の片方が諸事情で欠損したたため、
無事だったほうが引退を余儀なくされて別の場所へ移されるというのは
少数ながらも各地で散見される事件だったりします。
そう考えて最寄の神社となる中村神社と呼ばれる社へ出向いてみましたが、
神社の様子からはそれを推し量ることができません。
偶然にも境内で第一村人(=氏子さんふたり)を発見したので質問してみたのですが、
街道沿いの狛犬一体についてその存在はもちろん知っているものの、
設置に至る経緯についてはどちらの方も存じ上げていませんでした。
その後もうひとりの村人に尋ねてみましたが、こちらもアウト。
日曜日という取材日が災いしたか、時間が午前9時~10時頃というのがまずかったか、
屋外に人の気配がほとんどなく、さて困った。
これは出直しかな、そう思ってあきらめかけたそのときであった!
「おい、あそこに人がいるぞ!」(←水曜スペシャル風)
件の狛犬の場所から程近いお宅の庭先で作業しているお母さんを発見。
思い切って尋ねてみると「ずっと昔からそこに在ったの」という注目すべき証言が。
さらに「父ちゃんのほうが詳しいよ」といって家の際までお邪魔させてもらい、
ご主人に話を伺うことができました。
その衝撃的(?)事実を要約すると以下のとおり。
狛犬は近所に居た石屋が彫ったもの。
戦時中から戦後すぐくらいの話で、その石屋は亡くなってしまった。
そのまま石屋に置きっぱなしにしておくのもなんだし、
ということで、現在の場所に設置することにした。
隣にある道祖神は昭和22年頃に祀ったが、それとほぼ同じ頃だった。
ということでした。
そもそもどこの神社のために彫ったものなのかなど、
お父さんの話では肝心の細かな部分がはっきりしないのですが、
大筋が見えてきたところで推測を交えて以下に整理してみますと、、、
おそらくこの子はどこかの神社に奉納する予定で
通常通り一対で制作することになっていたのでしょう。
ところが阿形を作り終えたところで石工さんは他界。
一対として完成しなかったためにとうとう神社に奉納されることはなく、
阿形だけが石屋の加工場に放置されてしまっていた。
戦後になり、近所の方がその狛犬が放置されていることをもったいなく思い、
村の辻に道祖神を祀った事に合わせて同地に引き取ることにした。
以来、道祖神の守護獣よろしく、その傍らで村の安全を見守る役割を果たしている、、、
というふうに考えてみました。
現在でも道祖神については年に一度お祭りはされているそうです。
そう考えると狛犬も一体だけで寂しいかもしれませんが、
道祖神とともに居られることで守護獣の役割をけなげに果たしていると考えても
いいのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
じつはU1教授の記事に載った画像を当初見たとき、
穂高神社の参道にいる昭和15年生まれの狛犬に雰囲気が似ていると感じていました。
年代が違うかもしれないし、単なる気のせいだろうと深く気にも留めていなかったのですが、
戦時中から戦後にかけての制作という証言を聞いたとき、
その最初に感じた印象は的外れというわけでもなかったのではと思うようになりました。
(↑穂高神社、昭和15年制作の狛犬。)
自分は筑北村を含む同地域の神社はほとんど未調査なのですが、
業界(?)に出回っている情報によれば筑北村界隈の神社は
狛犬がそう多くは存在していない模様です。
(近郊では麻績村の麻績神明宮のブロンズ狛犬が有名。)
その背景事情は不明ですが、善光寺平からも松本平からも
石造狛犬の文化がどういうわけか積極的に進出してこなかったのでしょうね。
そのようななか、地元の石工さんが狛犬を制作するに際し、
篠ノ井線の先にある安曇野で随一の知名度を誇る穂高神社を訪れ、
昭和15年に建立されたばかりの立派な狛犬をそのお手本にしたとしても
なんら不思議なことではありません。
彫りの技術的にどちらかといえば淡白な印象を受けるのも、
やはり石工が狛犬を制作慣れしていないため、というふうに考えてしまいます。
上記の穂高神社狛犬モデル説に立って考えるとすると、
その不完全な模倣の結果として、表情や頭部各パーツの作り、胴体と頭部のバランス、
立ち尾の様子などなど、全体的にぱっと見た感じなんとなくこの子のモデルが
穂高神社の子たちだと思える一方、完コピには至らず中途半端な感じで
出来上がってしまったと考えられなくもないわけですが、はてさてどうでしょうかね。
以上、推測部分はホントに私個人の勝手な解釈ですので、
もし明らかな事実と相違があるようでしたら、ぜひコメントを頂戴できれば幸いです。
いづれにしても、ついに一対になり得なかった悲劇(?)の狛犬ですが、
未完のままでも廃棄されず地域の人に大切にされ続けてきたことに、
なんだか気持ちも和んで帰路に着くことのできた、今回の取材調査でした。
(撮影日:2014年9月28日)
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家紋のある狛犬 [狛犬・寺社(北佐久郡)]
長野県北佐久郡御代田町、小田井上宿の長倉・諏訪神社。
旧中山道小田井宿に鎮座する同社ですが、長野県神社庁HPによると、
もとは伍賀地区久能の宮平という場所に祀られていた春日神社だったそうです。
そこから文亀2年(1502)になって上小田井に移され創建されたといわれ、
天正16年(1588)に現在の小田井の地に遷座したのだそうで、
同じくHPでは「長倉神社・諏訪神社合殿」と記されています。
ご祭神は、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
社叢は御代田町の天然記念物指定となっています。
たしかに面積の規模は特別大きいわけではないですが、
境内の欅などはとても立派です。
一の鳥居を過ぎて石段をあがると、
二の鳥居の手前に狛犬が一対いました。
明治16年(1883)8月25日建立。
石工:北佐久郡安原村 飯田平蔵永常。
阿吽が左右反対で座っていますね。
まあそれだけでもじゅうぶん珍しい分類になるわけですが、
ここの子達が大変貴重な存在だといえる理由はこちら。
家紋入り。
丸に渡辺星(=三ツ星に一文字)ですね。
家紋が胴体に付属している狛犬は、自分は始めてみました。
探せばほかにもいそうですね。
ちなみに同社の神紋は立梶の葉。
二の鳥居の額束に示されていますが、諏訪神社といえば梶ですからね。
阿形の頭部には宝珠が乗っていますが、
吽形にもなにか乗っていたかのような痕跡が見えますね。
全体に造詣は背筋がすっと伸びたシンプルな感じですが、
つま先や鬣、尾などはしっかり彫りこまれていていい作品だと思います。
拝殿。
一間社流造の本殿は覆い屋のなか。
たくさんの境内社。
一角には神馬舎がありました。
小田井の道祖神まつりというのが町指定無形民俗文化財になっていて、
その祭りで村内を曳き回される藁馬が納められていました。
素朴な信州の祭りですね。
2月という真冬の行事のようですが、一度見てみたいなと思いました。
(撮影日:2014年8月16日)
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旧中山道小田井宿に鎮座する同社ですが、長野県神社庁HPによると、
もとは伍賀地区久能の宮平という場所に祀られていた春日神社だったそうです。
そこから文亀2年(1502)になって上小田井に移され創建されたといわれ、
天正16年(1588)に現在の小田井の地に遷座したのだそうで、
同じくHPでは「長倉神社・諏訪神社合殿」と記されています。
ご祭神は、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
社叢は御代田町の天然記念物指定となっています。
たしかに面積の規模は特別大きいわけではないですが、
境内の欅などはとても立派です。
一の鳥居を過ぎて石段をあがると、
二の鳥居の手前に狛犬が一対いました。
明治16年(1883)8月25日建立。
石工:北佐久郡安原村 飯田平蔵永常。
阿吽が左右反対で座っていますね。
まあそれだけでもじゅうぶん珍しい分類になるわけですが、
ここの子達が大変貴重な存在だといえる理由はこちら。
家紋入り。
丸に渡辺星(=三ツ星に一文字)ですね。
家紋が胴体に付属している狛犬は、自分は始めてみました。
探せばほかにもいそうですね。
ちなみに同社の神紋は立梶の葉。
二の鳥居の額束に示されていますが、諏訪神社といえば梶ですからね。
阿形の頭部には宝珠が乗っていますが、
吽形にもなにか乗っていたかのような痕跡が見えますね。
全体に造詣は背筋がすっと伸びたシンプルな感じですが、
つま先や鬣、尾などはしっかり彫りこまれていていい作品だと思います。
拝殿。
一間社流造の本殿は覆い屋のなか。
たくさんの境内社。
一角には神馬舎がありました。
小田井の道祖神まつりというのが町指定無形民俗文化財になっていて、
その祭りで村内を曳き回される藁馬が納められていました。
素朴な信州の祭りですね。
2月という真冬の行事のようですが、一度見てみたいなと思いました。
(撮影日:2014年8月16日)
より大きな地図で 狛犬(長野県北佐久郡) を表示
カタクラモール再開発と火の見やぐら、その後 [火の見櫓(松本市)]
当ブログにて今年1月22日ににエントリーした火の見やぐらに関する記事。
「消え行く運命」
松本市内のカタクラモール一帯の再開発に伴い、
片倉工業が所有する土地に建っている消防団詰所が移転を余儀なくされ、
その移転に際して傍らの火の見やぐらが解体撤去されることになったという話。
大正15年建設という、現存する火の見やぐらとしては歴史の古い
希少価値の高いやぐらということで何とか保存できないものかというのが
上記のブログの大筋で、その後関連ブログの「まちづくり・・・安曇野暮らし」にても
追加記事を6月にエントリーしました。
「カタクラモール再開発と火の見やぐら」
じつはこの上記ブログ記事と前後して、
松本市長宛てにメールを出しておりまして、内容は
「大正年代の火の見やぐらは貴重だから、例えばカタクラ側と協議して
新しいショッピングモールエリア内で保存再活用の道を模索できないか」
というようなもの。
もちろん自分なんぞが松本市長と面識があろうはずもなく、
市のホームページで一般募集している市長への手紙という投書コーナーを
利用しての意見提案だったわけなんですが、このたび
市のほうからその回答書が文書できちんと届きまして。
以下、その回答文書の内容を抜粋。
『消防第3分団の土地は片倉工業株式会社の土地を無償貸借しており、
火の見やぐらと詰所など建造物の所有&管理は松本市。
来年3月には構造物は撤去し、更地にして同社へ返却予定。
火の見やぐらは火の見の役割を終えており、新たな活用がなされていない、
老朽化による安全問題があるなどから、やぐらの活用を事業者に求めるのは困難。
・・・・・
但し、やぐらは大正15年築造で市内で最古の部類に入ると思われ、
形状も他の櫓とは趣を異にするものである。
現地での保存活用は難しいが、現状の図面作成や写真撮影による
記録保存調査を行うとともに、銘板など部分保存をし、活用方法を今後検討する。』
とまあ、抜粋というかほぼ全内容を要約したようなものですが。
結論から言うと、理想とする櫓のままでの保全は残念ながら無理ということです。
これは予算や民間事業者の事情もあるので難しいことは承知していました。
ただ、闇雲に解体撤去されて跡形もなく、人々の記憶からも消し去られてしまうような
寂しくも悲しい事態だけは回避できそうな"微かな可能性”だけは残されました。
記録画像や図面以外の実体として残されるのが銘板や半鐘だけなのか
あるいはその他の構造部位も相応に保存されることになるのかは
まだなんともいえませんが、少なくとも松本市行政として
火の見やぐらにほんのわずかでも関心を向けて頂いたことについては
前向きに捉えたいと思います。
もちろん、理想はやぐら全体の保全活用だったので、
寂しさが募るのは違いないのですが。。。
銘板とか半鐘などのちっちゃなパーツだけでなく、
もう少し容量の大きい、全体の何割かという形が認められるのであれば、
各地でたまにみかける見張り台&屋根部の保存転用などは
比較的現実的な話として可能性があるのではないかと思ったりもします。
近隣の実例では、大町市のあずまやへの転用例や、
山形村の小学校敷地への移転例などがあります。
大町市、宮の森自然園の見張り台転用例
山形村小学校に残る見張り台の移転例
というわけで、黙っていては解体撤去作業の際に銘板と半鐘だけ取り外して
あとの活用方法が見つからずに倉庫で埃にまみれるという可能性も無きにしも非ずなので、
今度はこの見張り台を半鐘とセットで新装カタクラモールの敷地に設置して、
来場する客のくつろぎスペースに活用するという提案を市にしてみようかと考えております。
(今回は同じ内容の記事を別宅ブログ「まちづくり・・・安曇野暮らし」でも掲載します。)
「消え行く運命」
松本市内のカタクラモール一帯の再開発に伴い、
片倉工業が所有する土地に建っている消防団詰所が移転を余儀なくされ、
その移転に際して傍らの火の見やぐらが解体撤去されることになったという話。
大正15年建設という、現存する火の見やぐらとしては歴史の古い
希少価値の高いやぐらということで何とか保存できないものかというのが
上記のブログの大筋で、その後関連ブログの「まちづくり・・・安曇野暮らし」にても
追加記事を6月にエントリーしました。
「カタクラモール再開発と火の見やぐら」
じつはこの上記ブログ記事と前後して、
松本市長宛てにメールを出しておりまして、内容は
「大正年代の火の見やぐらは貴重だから、例えばカタクラ側と協議して
新しいショッピングモールエリア内で保存再活用の道を模索できないか」
というようなもの。
もちろん自分なんぞが松本市長と面識があろうはずもなく、
市のホームページで一般募集している市長への手紙という投書コーナーを
利用しての意見提案だったわけなんですが、このたび
市のほうからその回答書が文書できちんと届きまして。
以下、その回答文書の内容を抜粋。
『消防第3分団の土地は片倉工業株式会社の土地を無償貸借しており、
火の見やぐらと詰所など建造物の所有&管理は松本市。
来年3月には構造物は撤去し、更地にして同社へ返却予定。
火の見やぐらは火の見の役割を終えており、新たな活用がなされていない、
老朽化による安全問題があるなどから、やぐらの活用を事業者に求めるのは困難。
・・・・・
但し、やぐらは大正15年築造で市内で最古の部類に入ると思われ、
形状も他の櫓とは趣を異にするものである。
現地での保存活用は難しいが、現状の図面作成や写真撮影による
記録保存調査を行うとともに、銘板など部分保存をし、活用方法を今後検討する。』
とまあ、抜粋というかほぼ全内容を要約したようなものですが。
結論から言うと、理想とする櫓のままでの保全は残念ながら無理ということです。
これは予算や民間事業者の事情もあるので難しいことは承知していました。
ただ、闇雲に解体撤去されて跡形もなく、人々の記憶からも消し去られてしまうような
寂しくも悲しい事態だけは回避できそうな"微かな可能性”だけは残されました。
記録画像や図面以外の実体として残されるのが銘板や半鐘だけなのか
あるいはその他の構造部位も相応に保存されることになるのかは
まだなんともいえませんが、少なくとも松本市行政として
火の見やぐらにほんのわずかでも関心を向けて頂いたことについては
前向きに捉えたいと思います。
もちろん、理想はやぐら全体の保全活用だったので、
寂しさが募るのは違いないのですが。。。
銘板とか半鐘などのちっちゃなパーツだけでなく、
もう少し容量の大きい、全体の何割かという形が認められるのであれば、
各地でたまにみかける見張り台&屋根部の保存転用などは
比較的現実的な話として可能性があるのではないかと思ったりもします。
近隣の実例では、大町市のあずまやへの転用例や、
山形村の小学校敷地への移転例などがあります。
大町市、宮の森自然園の見張り台転用例
山形村小学校に残る見張り台の移転例
というわけで、黙っていては解体撤去作業の際に銘板と半鐘だけ取り外して
あとの活用方法が見つからずに倉庫で埃にまみれるという可能性も無きにしも非ずなので、
今度はこの見張り台を半鐘とセットで新装カタクラモールの敷地に設置して、
来場する客のくつろぎスペースに活用するという提案を市にしてみようかと考えております。
(今回は同じ内容の記事を別宅ブログ「まちづくり・・・安曇野暮らし」でも掲載します。)