各務原市に立つ登録有形文化財の火の見やぐら [火の見櫓(岐阜県)]
岐阜県各務原市、前野町の火の見やぐら。
業界(?)では有名、国登録有形文化財の一基です。
集落の狭い路地沿いに立っているのですが、
遠目から建物越しにも頭が望めるほど、集落内では高層で目立っています。
文化財データベースによれば高さ19mになるようです。
敷地はふれあいセンター前野という地区の集会場の一角で、
隣接して各務原市消防団第一分団第二消防部第四班前野班の消防倉庫が建っています。
近づいてみると、足元は注連縄と松飾りが。
取材日は大晦日だったので、時節柄といってしまえばそれまでですが、
それにしても他の火の見やぐらでは自分はまだ見かけたことがなかったので
とても新鮮でした。ただ、こういう防災施設に注連縄を張るというのは
本来は決して珍しくないことなのかもしれませんが。
屋根は丸型、見張り台は四角で半鐘はなし。
踊り場は張り出しタイプで、半鐘がここに装備されています。
木槌はないのかなと思っていると、よく見たら半鐘の内側に隠されていました。
そして画像では判り辛いのですが、頂部の屋根と半鐘に付属した小屋根は
同じようなデザインで制作されているのが特徴です。
鉄工所のささやかなこだわりといったところでしょうか。
全体的なプロポーションは非常にスリム。
脚部から屋根に至るまで柱は直線で構成されていて、
規則正しくやや細かなピッチの横架材とリング式ターンバックルの様子が
かなり煩雑な印象を受けそうになりつつも、柱を含めた鋼材が比較的細めなためか、
ゴツゴツとしたしつこさはあまり感じられません。
梯子は柱内部を貫通しており、取付き部は折り曲げられて納められています。
踊り場から2段目の梯子への取付きも、横架材のせいか取付きが折り曲げて始まっていますね。
そして脚部のフレームに装着されている幾つかの銘版に注目。
正面上部「那加消防組前野部」
正面中柱「昭和拾貳年壹月建設」(昭和12年1月)
正面左柱「岐阜 熊田商店鉄工部製」
いわゆる戦前の制作ですが、上部横書き文字の消防組部分は
現代と同じ左→右の書き方になっています。
一方、左柱の鉄工所名のプレートにある岐阜の文字は右→左です。
同じやぐらのプレートとしてこれをどう解釈すればいいのか。
戦前とはいえ左→右の書き方がなかったわけではないので、
消防組の記載はたまたまそういう"新しい”書き方になってしまったという可能性。
しかしそれでは岐阜の文字が旧来の書き方になっていることとの整合性がとれません。
別の可能性として、消防組のプレートは戦後になって左書きが一般になってから
新たに設置されたものである解釈。ただし昭和12年建設の直後に消防組は
全国的に警防団へと改編され、さらに戦後は消防団という形で再スタートしています。
こうした流れの中であえて戦前の名称をプレートに左書きで記す必要があったのか、
少々疑問が残るところでもあります。
地元の関係者に聞けばすぐに正解が分かるのかもしれませんが、
とりあえず今のところは素朴な疑問ということにしておきたいと思います。
あと、やぐらの場所の斜め向かいにお寺があり、
運よく寺の鐘と火の見やぐらの半鐘とのツーショット写真を撮ることができました。
これも撮れそうでなかなか巡り合えないシチュエーションかなと。
これまでインターネットや書籍でこの火の見やぐらを見るにつけ、
登録有形文化財としては昭和12年という比較的新しい分類にあたり、
また外観もこれといって他所にはない特異な要素を持っているとも思えなかったので、
こんな感じでも登録文化財になれるんだ、というのが正直な印象だったのですが、
実際に現地にやって来て、なるほど登録されるだけのことはあるなという印象に変わりました。
屋根デザインやすっきりしたプロポーション、集落景観に馴染んだ様子などは
確かに文化財の構成要素として大切なのですが、自分が感心したのは
脚部基礎周りをきれいに石積みで囲って芝生を植えこんであったり
正月用の注連縄や松飾りの様子などに表れているように、住民と火の見やぐらの関わりが
いかに深いものであるか、という地域からの愛され方そのものでした。
どんなにすばらしい歴史遺産であっても、住民が関心を示さなければ価値が評価されない、
ただの構造物になってしまいます。やはり登録文化財として評価されるのに最も大切なのは、
当該物件の構造やデザイン的評価より以上に地域の熱意と愛情なんだということが、
この火の見やぐらと向き合って改めて感じ入ったことでした。
(撮影日:2014年12月31日)
業界(?)では有名、国登録有形文化財の一基です。
集落の狭い路地沿いに立っているのですが、
遠目から建物越しにも頭が望めるほど、集落内では高層で目立っています。
文化財データベースによれば高さ19mになるようです。
敷地はふれあいセンター前野という地区の集会場の一角で、
隣接して各務原市消防団第一分団第二消防部第四班前野班の消防倉庫が建っています。
近づいてみると、足元は注連縄と松飾りが。
取材日は大晦日だったので、時節柄といってしまえばそれまでですが、
それにしても他の火の見やぐらでは自分はまだ見かけたことがなかったので
とても新鮮でした。ただ、こういう防災施設に注連縄を張るというのは
本来は決して珍しくないことなのかもしれませんが。
屋根は丸型、見張り台は四角で半鐘はなし。
踊り場は張り出しタイプで、半鐘がここに装備されています。
木槌はないのかなと思っていると、よく見たら半鐘の内側に隠されていました。
そして画像では判り辛いのですが、頂部の屋根と半鐘に付属した小屋根は
同じようなデザインで制作されているのが特徴です。
鉄工所のささやかなこだわりといったところでしょうか。
全体的なプロポーションは非常にスリム。
脚部から屋根に至るまで柱は直線で構成されていて、
規則正しくやや細かなピッチの横架材とリング式ターンバックルの様子が
かなり煩雑な印象を受けそうになりつつも、柱を含めた鋼材が比較的細めなためか、
ゴツゴツとしたしつこさはあまり感じられません。
梯子は柱内部を貫通しており、取付き部は折り曲げられて納められています。
踊り場から2段目の梯子への取付きも、横架材のせいか取付きが折り曲げて始まっていますね。
そして脚部のフレームに装着されている幾つかの銘版に注目。
正面上部「那加消防組前野部」
正面中柱「昭和拾貳年壹月建設」(昭和12年1月)
正面左柱「岐阜 熊田商店鉄工部製」
いわゆる戦前の制作ですが、上部横書き文字の消防組部分は
現代と同じ左→右の書き方になっています。
一方、左柱の鉄工所名のプレートにある岐阜の文字は右→左です。
同じやぐらのプレートとしてこれをどう解釈すればいいのか。
戦前とはいえ左→右の書き方がなかったわけではないので、
消防組の記載はたまたまそういう"新しい”書き方になってしまったという可能性。
しかしそれでは岐阜の文字が旧来の書き方になっていることとの整合性がとれません。
別の可能性として、消防組のプレートは戦後になって左書きが一般になってから
新たに設置されたものである解釈。ただし昭和12年建設の直後に消防組は
全国的に警防団へと改編され、さらに戦後は消防団という形で再スタートしています。
こうした流れの中であえて戦前の名称をプレートに左書きで記す必要があったのか、
少々疑問が残るところでもあります。
地元の関係者に聞けばすぐに正解が分かるのかもしれませんが、
とりあえず今のところは素朴な疑問ということにしておきたいと思います。
あと、やぐらの場所の斜め向かいにお寺があり、
運よく寺の鐘と火の見やぐらの半鐘とのツーショット写真を撮ることができました。
これも撮れそうでなかなか巡り合えないシチュエーションかなと。
これまでインターネットや書籍でこの火の見やぐらを見るにつけ、
登録有形文化財としては昭和12年という比較的新しい分類にあたり、
また外観もこれといって他所にはない特異な要素を持っているとも思えなかったので、
こんな感じでも登録文化財になれるんだ、というのが正直な印象だったのですが、
実際に現地にやって来て、なるほど登録されるだけのことはあるなという印象に変わりました。
屋根デザインやすっきりしたプロポーション、集落景観に馴染んだ様子などは
確かに文化財の構成要素として大切なのですが、自分が感心したのは
脚部基礎周りをきれいに石積みで囲って芝生を植えこんであったり
正月用の注連縄や松飾りの様子などに表れているように、住民と火の見やぐらの関わりが
いかに深いものであるか、という地域からの愛され方そのものでした。
どんなにすばらしい歴史遺産であっても、住民が関心を示さなければ価値が評価されない、
ただの構造物になってしまいます。やはり登録文化財として評価されるのに最も大切なのは、
当該物件の構造やデザイン的評価より以上に地域の熱意と愛情なんだということが、
この火の見やぐらと向き合って改めて感じ入ったことでした。
(撮影日:2014年12月31日)